Ⅱ106.キョウダイは呼んだ。
「ディオス‼︎」
無我夢中で走り続けて、視界に捉えた時には喉が枯れていた。
だけどちょうど休憩中だったディオスには、仕事せずに立っている今しかなくて、近づき過ぎると雇い主のダドリーさんに見つかっちゃうかもしれなくて、声で呼ぶしかなかった。
叫んだ直後には酷く咳き込んで、振り返ったディオスの顔を見るより先に僕が俯いた。ゲホゲホと吐きそうなくらいに咽せて一気に膝から落ちて地面につく。最後の酸素を全部使い果たしたのだと頭だけが理解する。
自分の咳に紛れて「クロイ⁈」「なんでここにっ」「見つかっちゃうからこっちに……」とディオスの声が聞こえた。
さっきまで数メートル先に居たのに、ディオスの方から駆け寄ってくれたんだとわかった。無理して走り過ぎた、いくら息を整えようとしても全然肺が休まらない。
僕の腕を引くディオスだけを頼りに足を無理やり動かして何処かに進む。壁に背中をつけて、座り込んだ僕にディオスは背中を摩りながら何度も「どうしたんだよ⁈」と聞いてきた。言いたくても、早く言わないとと思っても言葉らしい言葉を話すのに時間が掛かった。
もう持参した水も使い切ったというディオスはすごく狼狽えていて、水を汲んでこないとと言い出すから何処かへ行かないように腕を右手で捕まえ握り締める。「良いから!」と濁った声が何とか通じた。
「……ッ……もゔ、いやだ……‼︎同調、じッない‼︎……セドリッ……様にも、バレっ……」
通じると思ったらガラついた声でも構わず怒鳴る。
ディオス以外が聞いても絶対意味がわからない言葉になったそれに、僕が唯一通じて欲しい相手はすぐ理解した。
息を引く音を至近距離のお陰で耳が拾った。俯けた顔を少しだけ角度を上げれば、ゼェハァ切らす僕に目を見開くディオスが居た。「なんでっ……」と詰まらす声に、もう泣きそうなのだとわかる。完全に足を固めたディオスから手を滑らすように離せばそのまま地についた。
「っ……ゼドリッグ様に、……昨日はディオスっで気付かれた……‼︎もう、あの人は、僕らがどっちかわかってる……!」
もう無駄だと。
だからもう止めようと言いたかった。セドリック様にバレたならいつか他の人にもバレる。その前に止めようって、セドリック様の名前と王族の存在で説得したかった。
最初は「うそだ」だった。でも本当だ。間違いなくセドリック様は僕らを見分けている。どうやって見分けたのかはわからない、けれど知られたからにはもう先は保証されない。いつか本当に、……本当に罰せられるかもしれない。その時じゃもう遅い。
セドリック様がどうするつもりかわからない。罰するつもりか、このまま見逃してくれるつもりなのか。どちらにしろセドリック様から学校に知られたらもう僕らは終わりだ。退学どころじゃ済まされない。
「一体何があったの……⁈そんな、そんな話じゃわかんないよ!ちょっとクロイ……」
その時。
狼狽たディオスの声が宙を揺蕩った瞬間、ぞくりと寒気が走った。
息がやっと整って頭も熱を落としたばかりだ。視野すらいつもよりきっと狭かった筈なのにディオスが何をするつもりか読めてしまった。
僕が動揺させた所為だ。セドリック様の名前を出して、もう同調しないとか、説明不足過ぎたんだ。一秒でも早く僕に何があったのか、その状況を知りたがるディオスが飛びつく方法はたった一つ。
僕に伸ばすディオスの手が、〝同調〟しようとしてるのだと。
声よりも先に目が勝手に見開いていって、生まれて初めてディオスが怖くなった。もう、これ以上同調は
「触らないで‼︎‼︎」
パシンッ。
乾いた無感情な音。それが今までなかったくらい嫌に響いた。
ディオスを払い退けた手が痺れるようだった。そんなに強く叩いたつもりもなかったのに、生々しく残って衝撃よりも引っ掻いた。
歯を食いしばって歪む視界でディオスを睨む。今までになく歪ませたディオスと同じ顔で僕は更に声を荒げて怒鳴る。もう、声に出さないとどうにかなりそうなほど恐怖と嫌悪に襲われた。
ここでディオスを止められないと、本当に僕らは堕ちるところまで堕ちてしまうとそう思った。あと一回でも同調すれば、その先でも僕が今の意思を固めていられる自信がない。今言わないと、二度と僕は自分の意思をディオスに遺せないかもしれないという恐怖が勝つ。
「もう嫌なんだよ‼︎‼︎だから同調もしないし意味もない‼︎どうせ皆にバレるしバレたら学校からも追い出されるしジャンヌの言った通りだ!全部が全部アイツの言った通りになってる‼︎このままじゃ本当に僕らはっ……」
息継ぎも殆ど忘れて捲し立てた。
次から次へと言葉が溢れてきて、選ぶ余裕もなかった。昔からクロイは口が悪いとか言われたけれど、ここまで思いつくままに行ったのは数年ぶりだった。顔が段々と熱がこもり過ぎて熱くなって息が止まって最後は
僕らの時間も、止まった。
ディオスの表情が凍り付いて、何を思っているかは今の僕ですら奥まで思考が届かなかった。
頭ではわかったのに、謝るより先に僕は勢いに押されるまま刃ばかりを兄に吐き付けていた。手を弾かれた時からずっとディオスは氷像のように固まったままだったのだと遅れて気付いた。
口を結んだまま呼吸すらできてないようなディオスからはいつも以上に血の気が引いていた。両手も力なく垂らしたままで、虚な目が濡れている。……言い過ぎたと、わかった時はいつも遅い。
「なんっ……、……じゃあッ、この、こういう風に僕らがなってるのも、全部ぜんぶジャンヌがっ……」
ぽつぽつと雨上がりの空の方がおしゃべりだった。
纏まらない言葉を繋げながら、震える唇で話すディオスの瞳が次第に色を変えていく。目の方がずっとディオスの感情を語っていた。
違う。ジャンヌが仕掛けたわけじゃない、ただ最初からこうなることを読めてただけだ。
……いや、違う。ディオスも本当ならこれくらいわかる筈だ。今は僕の思考も同調しているんだから余計に。それなのに今の僕の言葉で勘違いするなんておかしい。
きっと、ディオスだって本当はわかっているのに
「ッッアイツのっ……‼︎‼︎」
それでも、目を逸らし逃げる。
火を吐いたような声の後、唇だけじゃなく拳から肩まで目に見えて震わした。血の気が戻ったと思えば、今度は怒りに染まっていく。
ぐわりと見開いた目が血走って、僕が来た道へと振り返った瞬間にまずいと思った。「待って‼︎」と無機物みたいな感覚の自分の手を振り上げもう一度ディオスを掴む。駆け出そうとするその手を何とか引き止められた。反射的に僕へ振り返るディオスへ声を張り上げる。
「なんでそうなるの⁈今はジャンヌ関係ないでしょ!僕が言いたいのはアイツが警告した通りになったってことで」
「ックロイも言ったじゃんか!ジャンヌが最初から仕組んでるかもって!きっと、最初から僕らがセドリック様に見破られるのもわかってやったんだ!そうすれば王族に嘘ついたことになるし学校どころか国から僕らを追い出すことも……」
違う、違う、違う。
わかってるんでしょ?ジャンヌが僕らがこうなるのをわかって高みの見物してるのは確かにある。このまま「ほらやっぱり」とか嘲笑うつもりとか、最後にまだ陥れるつもりかもしれない。けど今は違う、こうなっている原因はジャンヌじゃないしアイツを例え殺しても僕らは何も変わらないし変えられない。
「なら余計ここでジャンヌに問い質しに言っても良い事ないでしょ‼︎よく考えてよ今一番最善なのは」
「いやだ‼︎同調無しで僕がずっとディオスみたいにできるわけない!今だってセドリック様にバレたなら余計止めるわけにはいかないでしょ!」
「ッだからセドリック様に無意味だったなら他の人にもどうせ気付かれるって言ってるの‼︎」
また口喧嘩だ。
こうなると自分がだんだん情けなくなる。だっていつも折れないのはディオスで譲ってくれるのはクロイなんだから。
「じゃあどうするのさ⁈またディオスが一人で仕事⁈あんなに泣いてたくせに!なんでそんな自分ばっか背負おうとするの⁈」
「クロイには関係ない!僕が兄なんだから我慢するのも当然ッ……、……あれ……?」
「「僕は、……どっち⁇」」
ざわっ、と揃った声にまた怖気が走り抜けた。
熱が入っていた顔が一気に冷えて凍り出す。また、だ。またディオスとクロイが混ざってた。今度はすぐ気付けたけどまずい。折角自覚できたのにまたディオスだ。
口を閉ざして手で覆う。違う、僕はクロイだ。クロイ・ファーナム。髪留めも今日は取り替えていない。ちゃんとわかってる、僕はちゃんと僕だ。
必死に頭に言い聞かせ、煩い心臓を反対の手で押さえつける。俯き、蒼白のディオスから顔ごと逸らしながら荒くなろうと繰り返す呼吸にまともに働けと念じた。
「なんでっ……」
先に喋ったのも動いたのも、今度はディオスだった。
必死に僕が僕だと取り戻そうとする僕に対し、ディオスは戸惑いの方が強かった。
まずい。もともと特殊能力があるのはディオスだ。それに、ずっと仕事してる間に一度もディオスがクロイにならなかったとも限らない。
もう僕よりずっと、ずっとディオスの方がもし
『混ざって戻らなくなるわ』
地面を蹴る音が聞こえた。
ディオスから手を離していたのに気が付いたのはその後だ。顔を上げたらもうディオスは今度こそ学校の方角へ走り去った後だった。
「ちょっ、待ってディオス‼︎‼︎ちゃんと、話を最後まで」
「おいそこの‼︎‼︎ディオ〜……ディオス!馬車が着いてるぞ‼︎早く仕事にかかれ‼︎」
小さくなるディオスの背中を追いかけようとする寸前、別の方向から遮られた。
その声に僕も慌てて口を閉じる。誰なのかは振り向かなくてもわかる、僕がディオスになって仕事をする間にはこの人は雇い主なんだから。
荷物を落とすとすごく怒るし、遅くても苛立つ人。だけど、こんな子どもの僕らでもちゃんと雇ってくれた人だ。間違いをしなければ他の人と同じように賃金もくれた。……だから、これ以上怒らせることもしたくない人。
僕とディオスと間違ったその人に、僕は急いで振り向き頭を下げた。「すみません‼︎」と声を上げ、返事を貰うより先にディオスの仕事へ戻る。
僕とディオスが双子のことも、ダドリーさんは知らない。勝手に入れ替わっていたなんて知られたら怒られる。昔なんて、違う職場で同じことをしてバレたら「それじゃあ新入り二人の面倒を見させられるのと同じだ」「入れ替わりじゃ覚えるのも二人分時間かかるんだろ」ってクビにされたり給料を減らされたこともある。
ディオスの仕事に穴を開けるわけにはいかない。僕らが双子なのも知られるわけにはいかない。
「すぐ、戻ります!」
馬車へと走りながら、最後に振り返る。
ディオスの背中はもう見えなかった。髪飾りも交換してないのに、姉さんに気付かれたらどうするの。服こそ一緒だから教師や生徒にはバレないけれど、姉さんならすぐ髪飾りの数に気付く。今のディオスに上手く誤魔化せるとは思えない。
「っ……ディオス」
でも、もう止められない。
ディオスを追いかけたいのに、目の前の生命線に縋り付く僕は本当に惨めだ。
仕事より金より自由より、一番大事なのは家族の筈なのに。
なのにこの手は馬車の積荷に手を伸ばすし、駆けたい足は荷物を落とさないように地を踏み縛ることしかできない。
『姉兄のことは好きか?』
好きだよ。大好きだ。
けれど、その姉兄を守る為には金がいる。金の為には仕事がいる。今の僕の選択だって絶対間違ってはいない。ただ、守る為に支える為に力になる為に。
その為に仕事に縋り付くしかない僕らは、本当にきっとこの生き方しかもう無いんだと思い知る。何を失おうと一時の幸せを得ようと、最後に行き着く先は変えられない。こんな細い糸を手繰るような日々すら、……きっとまだ幸せだったと思う日が来てしまう。
そんなの、もっとずっと前からわかってたし諦めてた。ただ、ただもしそうなってもせめて
〝僕〟と〝ディオス〟の心だけは最期まで捨てたくないと願ってしまう。
誰もが当然のように持ってるそれを、僕らだって。
野垂れ死ぬ最期まで、それだけは手放したくないと思うのも僕らみたいなのには贅沢な願いなの?……ねぇ
誰か、助けてよ。
Ⅱ61




