〈コミカライズ1巻・感謝話〉王女は手を握られ、
「姫様、何をなさっておられるのですか」
十にも満たない少女に、淡々とした声が掛けられる。
聞き慣れた女性の声に、呼ばれた少女はびくりと肩を上下した。背中からでもその少女が何かを隠していることは明らかである。更には彼女の動揺を察知したのであろう鳥が、彼女の手元の位置から飛び立って行く。
彼女の行動を幼い頃から把握している女性は、それだけで何をしていたかすぐに理解した。音には出さずに溜息を吐き、再び感情を消した声で厳しくもう一度問い掛ける。
「何をなさっておられるのですか」
「……小鳥さんが……。とても、可愛かったからクッキーをあげていました……。…………折角撫でさせてくれたのに……」
正直に言いながら、わかりやすく肩を落とす少女は最後に小さく不満を零す。
幼い彼女にとって唯一とも言える友人の小鳥に逃げられてしまったことは、それほどまでにショックなことだった。しかし、落ち込む少女の気持ちを知っても理解はしようとしない女性は、今度は聞こえるように大きく息を吐く。
ハァ……、と音に出してから背中ばかりを向ける少女の腕を加減して掴む。これから〝散歩の時間〟だというのに、その前に手を洗わせなければならない。歩かずのんびり庭園で時間を費やし続ける彼女を軽く叱咤するように唇を尖らせる。貴方は一国の王女なのですよ?と今まで何度も説いた言葉を重ねる。
「ローザ第一王女殿下。王族たる者、安易に動物や他者に触れてはなりません」
彼女の立場を知らしめるように呼び直した侍女は、そう言って近くの井戸へと彼女をゆっくり引っ張った。
ローザの世話をする侍女の中でも唯一強い口調の彼女は、ローザに乳を与えた経歴もある立派な乳母である。幼い頃から育て続けた彼女は、ローザにとっては他の侍女と違い教師のような印象が強かった。
王族としての教養や勉学の時間、起床や食事、入浴の時間などが決められていることは当然のこと、その乳母は自由時間まで全てを細かく定めていた。散歩も昼寝も読書も、全ては乳母が決めた通りに過ごすローザにとって、本当の意味での自由時間は無に等しい。
そんな中、おやつのクッキーに誘われて訪れてくれる小鳥だけが彼女の癒やしでもある。が、……それも乳母の一喝で逃げられてしまった。
ぷくっ、と頬を膨らますローザだがそれ以上の文句は言わない。幼い頃から当然のように王女としての教育を受け、自分にとって実の親よりも身近で強制力の強い存在である乳母に逆らおうという意思はない。「なりません」「いけません」ばかりを言われても、逆らうことは一度もない。何故ならば「それこそが王族に生まれた責任」と教えられてきたのだから。
「第一王位継承者である貴方の一挙一動で、フリージアに生きる民が幸福も不幸も左右されることを忘れてはなりません。たった一つの間違いが、国民全てを殺すことにもなるのです」
現女王である母親と、王配である父親にも「厳しく育てよ」「甘やかさず立派な王女に躾よ」と命じられている乳母は元の優秀さと生真面目な性格も手伝い、それを徹底した。
そしてローザも両親からの方針であることを幼いながらによく知っている。物心がつく前から高い位置でしか見たことのない両親にやはり不満も期待もないが、ただ一つの違和感はその両親を〝母上〟〝父上〟と呼ぶ時だった。
本でしか知らされない家族の常識は、王族であるローザにはおとぎ話と同じくらい遠い世界である。家族としての小さなやり取り一つ一つが疑問には思うが、深くは学ばない。それよりも彼女に必要なのは王族としての教育なのだから。
王女として優秀だと頭角を表してきたローザは、それを嫌だと思ったことも逃げたいと思ったこともない。むしろいつかは国民の為になることならば学びたい。それが王族である自分の大事な〝責任〟なのだから。
しかし、それでも自身の疑問が消えないわけでもない。
砕いた菓子と啄まれた跡と、小鳥が乗ってくれた手の平を乳母に流水で洗われながら、ローザはぼんやり思う。
─ 抱き締められるって、どんな感じかしら。
目の前の乳母や侍女にも、抱っこやそれに近い行為は何度もしてもらったことはある。
しかし、ただ何の為でもなくただ愛情故に抱き締められるのがどんな感触なのか幼いローザは知らない。
─ 頭を撫でられるのはくすぐったいって本当?
自分で自分を抱き締めてみても、全くしっくりこない。試しに侍女に抱きついたことはあるが、王女相手にそこで安易に抱き締め返す者はいなかった。厳しく育てることを女王に仰せつかった乳母も当然そのような甘やかすことはしない。
自分で自分の頭を撫でてみても、やはりわからない。侍女に髪を解かれる時の方がまだ心地良い。
王居に住む王侯貴族の子どもやその両親とのやり取りはたまに見る。何の躊躇いもなく母親や父親に幼い子どもが抱きついたり、頭を撫でられる光景はローザには空を自由に飛ぶ鳥のようだった。
─ 親って、なにする人?
ぼんやりとそんなことをとりとめもなく思うローザだが、疑問を口にはしない。
尋ねて良いことは王族の学びに必要なことだけだともう知っていた。
……
…
「ああぁぁもう可愛い‼︎可愛い‼︎」
晴れ渡った空の下、庭園で女性の黄色い悲鳴が何度も上がる。
時折、きゃああああ!と衛兵が悲鳴と間違う音も聞こえるが彼らも慣れていた。困ったものだと眉も垂らすが、やはり口元は笑んでしまう。今までは室内でのみ育てられてきた少女が、とうとう外で遊ぶ年頃になったことが嬉しくて仕方が無い母親に誰もが笑みを禁じ得ない。
産まれてから健康に育った少女だが、二足歩行が手を取らなくて良いほど安定したのは最近である。母親に手を取られ、一歩一歩庭園へと足を前後させる少女を衛兵も侍女も誰もが微笑ましく見守った。
転ばないように、怪我をしないようにと小石一つすらない芝生を歩いた少女に、その手を取った母親は満面の笑みで髪が乱れんばかりに頭をなで回しながら今日も声を弾ませた。
「プライド!とっても上手にできたわね。偉いわ!天才よ!!」
「ローザ……。もうプライドが歩くようになって随分経つだろう?」
「だってアルバート、私が両手で支えなくても歩いたのよ?それもこんなに小さな足で!!」
妻のあまりの親バカっぷりに微笑ましくも溜息を吐く夫に、ローザは両膝をついてプライドをぎゅっと抱き締めた。
背後から抱き締められ、ちょこんと無抵抗にローザの膝に座ったプライドはワンピースの下からその細い二本の足をぶら下げた。
ほら見て!と愛くるしいその両足を勝ち誇った顔で見せつける妻に、わかったわかったとアルバートは半ば投げ気味に言葉を返す。もうこのやり取りすら今日が初めてではない。
「ああぁもう本当に本当に可愛くて可愛くて……こんな可愛い子を私が産んだなんて信じられる?アルバート」
「それは間違いなく信じられるよ。……だが、ローザ。そろそろもう良いんじゃないか?もうこの子が乳を離れて一年は経っているじゃないか」
ぎゅうううっとプライドが苦しくないように抱き締めながら、ぷにぷにとした頬を摺り合わせるローザにアルバートは慎重に言葉を選ぶ。
彼の言わんとしていることをすぐに察知したローザだが、直後には「だめよ!」と頬を膨らませてみせた。女王としては威厳の塊である彼女だが、可愛い愛娘に関しては本来の幼さが前に出る。
本来であれば第一子が乳離れするまではと言っていたが、可愛くて仕方が無い我が子をその後も彼女は手放さなかった。そして今もプライドを身籠もったと知った日から何度も言った宣言を彼へと繰り出す。
「プライドは乳母にも侍女にも任せません。この子は私と貴方の娘なのだから。確かに私は〝母親〟を知らないけれど、……この子を抱き締めることも撫でて褒めてあげることもできるわ。私みたいな寂しい想いなんて、絶対にさせたくないの」
そう良いながら、遠い記憶に想いを馳せた彼女の目が僅かに憂う。
アルバートも彼女の過去は聞かされていることもあり、強く言えない。彼女がどれほど家族や愛情に飢えていたかはよく知っている。次期女王としてのただただ責任と使命の固まりとなっていた彼女に、初めて愛を教えたのも抱き締めたのも頭を撫でたのも彼である。
抱き締めていた両手を優しく緩めれば、彼女の膝の上で上機嫌だったプライドの目がキョトンと丸くなる。父親譲りの深紅の髪と釣り上がった紫色の瞳に母親譲りのウェーブがかった髪。女性として生を受けた彼女は両親のどちらにも似なかったが、間違いなく二人の娘だった。しかもローザからすれば、愛しい夫譲りの目や髪色を持つ娘を愛おしく思わないわけがない。
王族として髪も伸ばし始めて良い頃のプライドだが、まだ人前に出ない頃くらいは短い髪も許してあげたい!とローザによって王族の女性にしては珍しい短い髪は幼い彼女にはよく似合っていた。
母親からの膝からおりたプライドの興味が、今度は庭園の芝生へ移る。ちょうど小鳥が数羽止まった芝生に向かおうと安定した足取りで歩む彼女に、それでもローザは両膝をついたままそっと手を差しだした。
「大好きよプライド。産まれてきてくれてありがとう。たくさんたくさん甘えてね」
毎日欠かさず掛けた言葉を、今日もまた彼女は口ずさむ。
これ以上の幸せはないと思いながら、その愛しい小さな手を宝物のようにそっと指で包み込んだ。
松浦ぶんこ先生のコミカライズ1巻の特典で描き下ろして頂いたペーパーから、構想して書かせて頂きました。
こちらは、書泉・芳香堂様書店特典の描き下ろしペーパーを元に書かせて頂きました。
※書店ではなく、イラストで作者が勝手に選んで書かせて頂いています。
ローザとプライドのイラストは、当時松浦ぶんこ先生から細かく確認をとって下さりました。
プライドの髪型も二パターン考えて下さり、作者はどちらも素晴らしく可愛らしく、どちらも可能性として有りだと判断しました。
そして今回は正式に特典採用されたこちらの髪型での、作者なりの構想です。お楽しみ頂ければ幸いです。




