8.お馬はカポカポ走ります
紙ナプキンを渡してくれた人物は、シーカ・ライムと名乗った。
胸周りを鎧で覆っており、ズボンを履いて、肩に届く長い髪を一束に結っていたのと、その顔立ちが中性的だったことから「男か女かもっと別の人か」の区別は見た目ではつかなかったのだが、言葉を交わしてみると女性であることが分かった。
「名家の次男坊や三男坊達が、何処かのお姫様やお嬢様を射止めるために、一獲千金を狙って旅に出る事が多かったって言うのは、昔の話だ」
ライムはそう語った。
「今は女でも剣が持てる。その技さえ知っていればね。ああ、ちゃんと免許は持ってるよ?」
そう言いながらライムは腰のホルダーにかけてある細身の長剣を少し持ち上げてみせる。
アンはちらっと考えた。そう言えば、帯刀許可を得るには免許が要るんだよねと。
「この宿に泊まるのは初めて?」と、ライムは聞いてくる。
そう聞かれ、アンは「はい」と答え、「ライムさんは?」と聞いた。
「私は三度目だ。ディネーラのお眼鏡にかなってね。あの鸚鵡が『また来てくれよ』って言ったら、次の回からは宿代が割引になるサービスを受けられる」
「サービスのレベルはそのままで?」と、アンは目を大きく開く。
「そのままで」と、ライムはおかしそうに笑む。
アンはその話を聞きながらカフェオレを傾け、飲み込んでから溜息を吐いた。
剣士と一緒にレストランから出てきて、夫々チェックアウトしに行くとき、ライムは尋ねてきた。「黒散原野に行くのは、何故?」
「えっと……花が見ごろかなぁと……」と、アンは誤魔化したが、「あの原野の見頃は五月だよ」と返ってくる。「だけど、行く方向は一緒だ。途中まで送るよ」
「いえ、良いですよ」
断ろうとしたが、ライムはまた剣を少し持ち上げてみせて、「道中、獣に合わないとも限らないしね」と言う。
飛んで行けるんだけどなぁと、言おうかどうしようか迷ってから、「それじゃぁ、お願い、します」とアンは答えた。
生憎、ディネーラはアンに「また来てくれよ」とは言わなかった。その代わり、「しけた面すんなよ」と言ってくれた。
次からの割引が受けられない事の慰めなのか、何なのかと考えていると、宿の主人の手により、鸚鵡が驚かない位置で、アンのサインと生年月日を書いた羊皮紙が燃やされた。
煙の一端が、くるくると渦を巻いて、何処かの方角に飛んで行く。
「ふぅむ」と、宿の主人は煙の方向を見て唸ってから、アンの方を振り返って微笑むと、「良い旅を」と述べた。
そんなわけで、アンは付添人と一緒に、黒散原野までの馬車の旅をすることに成った。アン達の乗ったホロ付きの乗り合い馬車は、旅行者と商人も乗せている。
何人か地元民も乗っていたが、彼等は前払いで、そう長くない距離を移動すると、御者に礼を言って降りて行った。
学生の二人連れは、「ウィスプの南瓜祭」のルーツをたどる旅をしていた。どちらも同じカレッジに通っていて、最終学年に到達したので、卒業提出の論文を書くための調べものに来たと言う。
「ついでにちょっと観光もしてる」と言いながら、フィールドワークで日に焼けた彼等は、真っ白な歯を見せてニッと笑っていた。
商人はエイデール国製の、強度のある色糸を求めて、買い付けに来ていた。この馬車の着く一番北の港まで行って、そこから船旅に切り替えるそうだ。大切そうに抱えているバッグの中身は、「命より代えがたいもの」であると言う。恐らく、上手く買い付けが出来た色糸か、商品と引き換えるための大量の石が入っているのだろう。
お返しに聞かれた旅の理由を、ライムは「武者修行」と答え、アンは「観光旅行です」と答えた。
カレッジの学生達は、アンが今までネイルズ地方の何処を回ったかを聞いて来て、まだ雪水湖と白霧森だけだと答えると、「限界断崖」には是非行ったほうが良い、と勧めてくる。
「あれが自然の神秘ってものだって思える、すごい眺めが見れるから」と、興奮気味に学生達は熱弁し、アンも観光パンフレットの地図を開いて、限界断崖の位置を聞いた。
学生達は、限界断崖に行くなら、織七巡と言う町から日帰りツアーのバスが出ているので、それに乗って、案内付きで出かけたほうが良いと語る。
「個人で出かけたら、休憩所も何もわからない状態で、道にも迷う可能性があるからね」と、彼等は……どうやら、自分達の体験談を語ってくれた。
良好なお天気の中、馬車はのんびりと道中を闊歩した。
途中の休憩所で、馬と御者が休む間に、乗客達も一休みする事に成った。馬宿には、簡単なお菓子や飲料水が販売されており、割鉢街道名産品として、ほかほかの蒸しパンが屋台で売られていた。
狭い馬車の中から出て、手足を伸ばしていたアンの所に、ライムが「食べなよ」と言って一切れの蒸しパンを持ってくる。
「ありがとうございます」と礼を言い、アンは蒸しパンを包んでいる油紙を受け取る。上手に出来た茹で卵のように、油紙はぺろりと剥けた。
柔らかい蒸しパンの中には、蜂蜜が練り込まれている。美味しい美味しいと食べているうちに、思考が巡り始めた。
蜜を集める蜂達……と、アンはぼんやりと考える。最初は蜂蜘蛛を連想したが、彼等が集めていたのは肉だ。蜜ではない。
蜂達の行き交う中に、蜂に蜜を取られない花が一本だけ咲いていて、その花は蜂達を守っている。
黒散原野の山の奥。森の中に、彼等の楽園がある。親からも神様からも見捨てられた子供達の。
弟が見せてくれたニュースペーパーで、数年前までのネイルズ地方では、人間の子供の集団失踪事件が起きていたと言う事も知っている。子供達と言うのは、蜂蜘蛛の子供だけを指すのではないだろう。
そして今、彼等を壊そうとする、「鬼」が近づいて来ている。
どうしたものかと考え、とにかく、ライムにばれないように黒散原野で捜索が出来れば良いな……と思っていた。
行く方向が同じと言っていたが、まさか原野その物の中にまでは、付いて来ないだろう。
アンはそう考えながら、馬宿の売店でレモネードドリンクを四本買うと、同じ馬車に乗っている全員に一本ずつ分けた。




