7.複合存在
目を覚ますと、まだ夜明け前だった。アンはベッドの上に体を起こし、伸びをして首を鳴らした。自然とあくびが出てくる。
確かに、これだけのサービスを受けられるなら、自分の生年月日を明かしたってお釣りがくる。
そう考えてから、やっぱり何か変だと思った。白霧森に来てから、特にこの宿に泊まってから、何処か気が抜けているような感覚がする。
時計が朝六時を告げる。朝ご飯を食べてチェックアウトしに行こうと思い、肌着の上にワンピースを着てとんがり帽子を被り、ずっと休ませていた箒を手に取った。
急に、頭の中がざわつき始めた。箒に宿っている魔力が、「いつもの自分」を呼び起こす。
寝ぼけ眼が急速に開き、ざわざわと、潮騒のように思考が巡り始めた。
「滅びゆく龍が二つ児を産んだ」
それが誰の事なのか。片方は、どうやらアンの事らしい。しかし、アンを産んだ女性は、弟を残したが、アンと弟は二人同時に生まれたわけではない。
それなのに、「龍の子」は生まれ出でた時から、何者かを脅かしていた。
五歳の頃の、魔力放出に因る事故。あの時に、今の「アン・セリスティア」は生まれた。月日を数えるなら、十四年前。その時にアンを生んだ「龍」とは何か。
そして、あの占い師は「『鬼』の相」と言う言葉も口にしていた。恐らく、彼女の能力は、東の国の術も包括しているのだろう。
アンは箒を掴んだままソファに座り込み、考えた。
東の大国で言う「龍」は、大きな流れの事だ。河であったり、水脈であったり、道であったり、風の流れであったりする。現在の、朱緋眼を持つアンを生んだ大きな流れ。
その起因の一つは、確かに弟の生まれた事も含まれるだろう。弟が生まれ、両親にあたる人達が離婚を決意した事で、三歳の頃から家に閉じ込められていたアンが発見されたのだから。
朱緋眼のアンが持っている力は、生れ持っての強い魔力の他に、事故が発生した時に出来た大量の「贄」の力を含んでいる。
滅びゆく龍と呼ばれる流れが、何らかの原因で「朱緋眼」を持つ者を生み出したとしたら。
この国の魔術の基礎である「古代四大元素」に近いものとして、東の国では「陰陽五行」と言う、五つの元素の流動として「力」を捉えるそうだ。
アンは東の国の術に対しては、そんなに詳しくないが、「力」が環境と言う流動に左右されることは、経験上知っている。
各地の仕事でも、他局の多数の清掃員達と力を合わせないと、乗り越えられないほど困難を極める時もあれば、一体の有能な精霊を連れていれば難の無いときもある。
この森は、アンの魔力を抱擁する。常に暴れ出す機を伺っている「龍の子」を鎮め、笑みの零れる穏やかな夢を見させてくれる。「龍の子」の放つ魔力は自分自身の中に還元され、治癒力となって心と体に休息をもたらす。
どんな化物にも休憩は必要なんだね。
そんな言葉が頭に浮かび、「本当にそうだ」と、同意した。彼等は、アンと一緒に旅を楽しんでいるようだ。そしてアンは答えた。
――休憩が終わったら、アトラクションに行かなくちゃ。
子供達は歓声を上げ手を叩き合う。大人達は苦笑いを浮かべて髪や首を掻いたり、腕組みをしたり。呆れた表情をしながら、「好きにしな」と言ってくる者もいる。
アンは、十四年前から、彼等と共に存在している。
ローズマリーは、占いが終わった後、印象的な「名前」を付けてくれた。
「複合存在」と、ローズマリーはアンを呼んだのだ。「貴女が、朱緋眼以上に、大切にしなければならない事」と言う言葉を続けて。
別れ際に、ローズマリーは慈しむようにアンの前髪を分け、額に触れ、両頬に触れ、顎を支えるように触れた手から、魔力を送ってきた。
アンが放っているものとは違う、丸く優しい香木のような香りが、ローズマリーの両手から溢れた。その香りを吸い込み、アンが自然と目を閉じると、アンの肩にとまっていた妖精達はローズマリーのほうにゆるゆると引き込まれた。
「おいきなさい、複合存在。貴女の香りを、忘れずに」
そう言って、ローズマリーはアンを家から送り出してくれた。
レストランには、朝食として、好みの量だけ選べるトーストとジャムとバターとクリームチーズ、それから牛乳とコーヒーと紅茶。セルフサービスで好みをのサラダを作れる野菜のバーも用意されていた。
斑瑪瑙五個で食べられる朝食としては、とても豪華である。
トースターで表面をパリッと焼いたパンの上に、上質な白いバターをこってりと塗りつけ、真っ赤なイチゴのジャムと真っ白なクリームチーズをたっぷりと装った。
レタスとスライス玉ねぎとスライスパプリカとトマトの櫛切りをサラダボウルに盛り付け、ビネガーソースをかけて、砕いたクルトンをひとさじ振った。
ドリンクはミルクたっぷりのカフェオレ。こんな所で輸入品のコーヒーに出会えたのは幸福だ。
アンは食事の前に祈る習慣はないが、空いている席に朝食を並べると、胸の前で手を組み、肩を震わせて朝食を見つめた。
誰も他人の様子は気にしていないようだが、アンの席から一つ離れた席に座っている人が、不審そうに横眼を投げる。目を閉じるでもなく、祈りの言葉を唱えるでもなく、朝食を見つめて歓喜に打ち震えている人と言うのは、確かにおかしく見えるだろう。
歓喜に打ち震えていた人は、胸の中の感動を唾液と一緒に飲み下すと、ふっと息を吐いてオープンサンドを食べ始めた。
パンの皿では支えきれない、バターとジャムとチーズの塊が、食べる人の上唇にくっついてグニャグニャ言っている。
しばらく口の周りをべたべたにしてから、アンは「パンと上に乗っている物を一緒に食べるのは無理だ」と察してパンを皿に置き、スプーンで油脂と果肉と柔らかいチーズの塊をすくうと、それだけを口に運んだ。
マナーがどうであれ、残さず食べられればそれで良かろう。
アンはそう思ったのだが、不審そうな視線を送って来ていた人が、「これ、どうぞ」と、紙ナプキンを三枚くらいアンに渡してきた。
口の周りを汚している人が、きょとんとしていると、紙ナプキンを渡してくれた人は、何も持っていない手で、上唇を拭く真似をしてみせた。
そこで、ようやくアンは自分の上唇に「バターの髭」がついていることを知り、いつもの調子でへらりと笑顔を浮かべると、「ありがとうございます……」と呟きながら、口の周りを拭った。




