6.休息の時
霧に包まれた森の町には、一軒だけ宿屋があった。正確には、ツリーハウス群を宿にして経営している大規模な宿泊施設があった。
アンは予約を入れていなかったが、泊まれるかどうかを聞いてみた。
黒と白のチェックのシャツと、ベージュのズボンの主人は、カウンターの傍らの鳥かごに閉じ込めた鸚鵡に話しかける。
「ディネーラ。空いている部屋はあるかい?」
すると鸚鵡は答えた。「三番棟の四号室がご機嫌だぜ!」と。
主人は背のほうにびっしり並んでいた引き出しの棚の中から、「304」と描かれたホルダーの付いているキーと小さな羊皮紙を取り出し、「確認のためにサインを」と言った。
アンはカウンターに備え付けてあった羽ペンで、ファーストネームのサインを描き、「ファミリーネームは要りますか?」と聞いた。
「結構です。その代わりに、サインの隣に生年月日を記入して下さい」と、主人は言う。
「年数まで?」と、アンは恥ずかしそうに聞いた。
魔術を使う者が、自分の生年月日を露見する。つまり、自分がどの星の位置の、どの月の満ち欠けの時に生まれたかを、晒してしまう事に成る。家の鍵を他人に預けるようなものだ。
「個人情報確認は、お互いの安全を万全にするためです」と、主人は回りくどい言い方で唱える。「私は貴女に、快適な宿と食事を提供します。その代わりに、一時的に貴女の情報を保存する権利を下さい。鍵を返してもらう時に、その羊皮紙は燃やします。旅の安全を祈願する術をかけてね」と。
「へんてこりんな習慣ですね」と、口に出してから、アンは自分の頬を叩いた。すかさず顔をしゃっきりさせて、「すいません」と謝る。
宿の主人は全く気にしていないと言う風にハハハと笑って、「これが、エイデール風ってものです」と述べた。
旅の安全祈願をしてくれると言う人には、確かに生年月日くらい教えても良いかもしれない。アンは宿屋の主人を信じる事にした。
「三番棟」と描かれた札の立っている樹の四号室は、幹をぐるぐると回るつり橋のようなスロープを上った途中にあった。古風な扉には、お祭り用のオレンジと黒のリボンを飾った、リースが取り付けてある。
鍵を開けて中に入ると、ちょっとしたアパルトメントくらいの広さの部屋になっていた。
密度のある木製の家具は丁寧に手入れがされており、天蓋付きの大きいベッドは清潔なシーツに包まれている。ふかふかのソファと、テーブルとキャビネットとデスクが置かれ、デスクには宿屋の何処の樹に何の設備があるかを描いた配置図が、縁に端を揃えていた。
一番棟にはレストランがあり、五番棟にはお風呂があった。
レストラン図の横には、「健康的な有機野菜と、美味しい地鶏料理が、あなたを待っています!」と、お風呂の図の横には「お湯は毎日入れ替えます! 清潔と安心の泡風呂をご堪能ください!」と、謳い文句まで添えられている。
この土地は、観光には力を入れていないはずなんだけどな、と思ってみたが、だからこそ宿が目立つので、此処の主人は「健康的でおいしい料理」と「清潔と安心のお風呂」を売りにしているのかも知れない。
アンは人間の体の作用を考えて、お風呂の後に食事に行こうと決定した。
箒と帽子だけ部屋において、着の身着のまま五番棟の根元に行くと、配置図が描かれていたお風呂があるにしては小ぶりな小屋があった。
出入り口に精霊が立っている。
「三番棟の四号室の者です」と、精霊に名乗ると、ドアマンらしき精霊は、アンを小部屋に招き入れた。小部屋の中には、魔法陣がある。
納得して、アンは魔法陣の中に立った。術が起動し、大きな洞窟の中に出た。
ごつごつした岩肌の見える室内は、脱衣所になっており、床は石床をピカピカに磨き上げていた。風呂から上がってくる誰かの付けた足跡を、係の精霊達がモップで拭いている。曇りガラスの扉で区切られた向こう側が、浴室らしい。
ポカーンとして脱衣所を見回していると、ふわりと一体の精霊が近づいて来た。「設備の案内をいたします。なんでもお尋ねください」と、言いながら。
タオル一枚も持ってくる必要はなく、全ての物は用意されていた。案内係の精霊はアンの服を預かり、ランドリー係の精霊に渡した。
「洗いから乾燥、アイロンまで時間を要します。最低一時間の猶予を我々に下さい」と、精霊は丁寧にお願いしてきた。
「はい。よろしく、お願い、します」と、アンはカタコトで答えた。
洗い場でシャワーを浴び、備え付けのボディーシャンプーやヘアーシャンプーで体中を洗う。使い捨ての垢すりタオルをもらったが、アンが背中が磨けなくて困っていると案内係の精霊がタオルをひったくり、肩から腰まで、ちょっとひりひりするくらいに入念に磨いてくれた。
しばらく背中にニキビは出来ないだろう。
体中の泡をシャワーで流してから、垢すりタオルをターバン代わりにして髪を纏め、ようやく花の香りがする泡風呂に入った。ちょっと熱めのお湯が触れた場所から、血行が促進され、筋肉がほぐされる。
あったかーい、と言いそうになって、また自分でパチンと頬を叩いた。この町に来てから、なんだか気が緩みっぱなしである。
普段だったら、もっと周りに注意するのにな、と考えて、周りにちらちらと視線を向けてみた。誰も他人を気にしなくらいリラックスしている。
アンも、目元を眠たげに緩め、ぼんやりしながら、一時の夢心地を味わった。普段は凝っているはずの肩や首に、手でお湯を寄せながら。
一時間二十分の長風呂の後、洗い上がってアイロンまでされた服を着て、レストランに行った。丈夫な樹の枝達に支えられた、食堂車の如き小屋の中に、磨き上げられた木目の琥珀色のテーブルと椅子が並ぶ。
有機野菜と地鶏のコース料理があると言うので、魔法にかかったようにそれを頼んだ。
小さなラディッシュとカットフルーツが整えられ、ソースで鮮やかに飾られた前菜から始まり、スープサラダに魚料理に鶏肉料理に、デザートの梨の果肉入りゼリーまで、なんとも味わい深い味覚の旅に舌鼓を打った。
目をぎゅっと閉じ、満面の笑みを浮かべるアンの前にカップが差し出され、「紅茶でございます」と、ウェイトレス係の精霊が、食事の終了を告げる。
紅茶に添えられていた角砂糖を溶かして口に含むと、アンは毎日考えている忙しい予定を一切思い出さなくなった。
何か、すごく大変なことを念じていたような気がする。そう思いながら、アンはレストランの出入り口でコース料理の代金を支払い、部屋に戻った。
ワンピースだけ脱いでハンガーにかけ、肌着姿でベッドにもぐりこむと、穏やかで安らかな眠気がふんわりと体を包み込んだ。
寝息を立て始めたアンの口元は、微笑んでいた。




