9.遅れてきた彼女
水曜日朝八時
セピア色の空間に、小さな人形が置いてある。それを抱き上げて歌を聞かせてあげていると、その人形はエムの声で「うるさいなぁ」と言うのだ。
「黙っててよ。良い所なんだから」と、あの時と同じ台詞を吐き捨てる。
それでも、アンは人形に歌を聞かせる。腕の中に抱いた人形は黙り込む。黙り込んで、突然、壊れ崩れてしまう。
「助かったね。これで終わりだ」と、人形が壊れたのが良い事のように、「彼等」は笑顔でアンを迎える。
人形を壊す事が、私の望みじゃない。アンは、うろたえるように首を振る。だけど、彼等は「何を泣いているんだい?」と聞いてくる。
「おい! アン! アン・セリスティア! 起きろ!」と言う、聞き覚えのある声がした。それは、ランスロットの肉声だった。「時間いっぱい眠っただろ! これ以上、庇い切れん!」
目を開けてみると、ランスロットの他、ガーランドの姿もある。
仮眠室の壁の一部には、列車が突っ込んで去って行ったような穴が開いており、そこに真っ黒な何かが居る。
アハハハ、と言う子供の笑い声が、その暗闇の中から響いてきた。「お姉ちゃん、目が覚めたぁ? じゃ、遊ぶのは此処までだね。バイバイ」と言う、トンネルの中に反響するような声が騒ぐ。
寝起きのアンが呆然としてるうちに、その黒い影は遠く見えなくなった。
水曜日朝八時十五分
ラム・ランスロットは、文様のような文字を書いた霊符に、意識の中の映像を転写した。
見た目としては、カウンターの上に置いた黒い札に片手をかざして、軽く目を閉じただけだ。
空中に浮いている簡易ベッドの上にエムが座り、ベッドの周りをオレンジ色の蝶の群れが囲む。
フィン・マーヴェルの備えた結界を利用したまま、エムを乗せたベッドは壁を突き破る。
エムは楽しげに笑みを浮かべ、開けた口の中から、赤黒い火炎の塊を複数吐き出す。
それ等は一時的にエムの周りを滞空してから、加速をつけてランスロット達のほうに突っ込んできた。
ランスロットは片手に構えた霊符から術を呼び出し、障壁を展開する。
ガーランドは目の前に突き出した両手から「清浄化」の力を放ったが、エムの周りを覆っている結界の効果で、術が届かない。
結界を解く隙はなさそうだ。もうエムは「あちら側の空間」に居る。
ランスロットは傍らの相方を見た。ガーランドは首を横に振る。フィン・マーヴェルに、通常外の清掃――死の世界に関わる削除――を行なわせるわけに行かない。
エムの攻撃は火炎から雷に変わった。雷の矢は、ランスロットの作った障壁を鋭く重く叩く。
ランスロットは「持ち堪える事」を覚悟し、霊符を服の中からもう一枚取り出した。守護強化のための霊符だ。
ガーランドも、両手を胸の前に組んで、魔力波を拡大し、ランスロットの結界を覆うように結界を張る。
その二重の結界を叩き壊そうと、エムは局所的な暗闇に見える空間から、火炎と雷を放ってくる。その攻撃が放たれる度に、少年の囁くような声が聞こえた。
声に意識を持って行かれないように、ラムは眼光を鋭くし、ガーランドは歯を食いしばる。
アンが意識を取り戻すまでの間に起こったのは、そのような事だった。
霊符に記録を済ませたランスロットは、清掃員達に一斉通信を送った。
「エム・カルバンの早急な確保を優先する」と指示を出し、霊符に記録したエムの情報を夫々の通信の中に添える。
その通信の内容は、アンの意識の中にも流れ込んできた。アンは滅多に見ない「記憶映像付きの通信」に、目を瞬いた。
仕事仲間とは言え、自分の頭の中を見せる事に躊躇が無いな……と思い、アンは人形に宿ったままのランスロットの背中を注視していた。
「何をじろじろ見てる」と、ランスロットは振り返りもせずに言う。「もう、情報を受け取った奴等は動き始めてるぞ。お前も仕事の準備をしろ。ドラグーン清掃局員」
肩書で呼びかけられて、アンは思わず、胸の前でぐっと拳を握った。
日曜日から一週間、誰かを寄越してもらいたい。適切な人員は居るか?
そう問いかけれられたオペレーターは、日曜日までの予約はいっぱいである事と、一週間も手の空きそうな清掃員は一人のみで、その人員を派遣できるのは月曜日の午後になると告げた。
それで構わない、とアーヴィング家の淑女は太い声で答えた。一日程度の遅れなら取り戻せる人員であると信じている、と付け加えて。
ドラグーン清掃局。死霊に関わる「清掃」を行なう、高技能術師が揃った清掃局だ。所属するには厳しいテストを潜り抜け、局員となってからは日夜の錬磨とも言える激務が待っている。
其処の局員である事は、清掃技術を持つ魔術師としても誇りにして良い事だ。
同時に、局員達は誇りと驕りを間違えるなと徹底的に教育される。
「死」に対して、恐怖せず、嫌悪せず、誠実である事を求められ、それに応えられる局員を育成している。
アンがドラグーン清掃局員である事は、彼女が来た翌日に、ランスロットが調べていた。
普段は何処かおどおどしているのに、やけに術の応用が上手い。一度「仕事モード」に入ると、それまでの落ち着きの無さが消えて、訓練され切った身のこなしと、術の鋭さを見せる。
しばらく、仕事の傍らにアンを観察していると、おどおどした様子を見せるパターンが分かってきた。
術を使っている時、仕事に熱中している時、任務のために行動している時、彼女は非常に活き活きし始める。逆に、術が操れない状況に居る時は、不安そうにそわそわし始める。
その行動パターンに疑問を持ち、ドラグーン清掃局にハッキング紛いの術まで使って情報を引き出した。
アンは十歳の段階で、ドラグーン清掃局に異例登録されている。その前は、五歳の時に、家に閉じ込められた状態で育児放棄されているのを福祉団体に発見された。
当時の彼女は、人間としての躾もほとんどされておらず、言葉もろくに話せなかった。
三歳の段階では既に家に閉じ込められていたようだが、二年間の間、何が彼女を生かしていたのか。それが疑問視され、可能性の一端として強力な魔力の保有を視野に入れられた。
その魔力保有値を調べる時に、事故が起こった。
最初に測定した彼女の魔力数値の桁数を間違えて記録しており、検査機関で制御できないレベルの魔力を放出させてしまったのだ。
それにより、局地的な大地震が起こり、アンの力を調べていた検査機関の建物は全壊した。
町の建物が軒並み倒壊し、町一面の瓦礫の中で、生き残った者達が、生き埋めになっている人間を助けようとしている。
しかし、何処からか火事が起こり、緋色の火炎が次第に町を覆って行く。
救助する側も、迫ってくる火炎からは逃げざるを得なかった。
「熱いよぉ!」と叫ぶ子供の声、「助けて!」と叫ぶ女性の声。「息が出来ない!」と叫ぶ男性の声。
アンは、本能的に作った自分の結界の中で、その様子を黙って見ていた。
その時の記録映像が残っていた。それを見た五歳児が「これがお前の起こした事だ」と言い聞かせられていたら、トラウマにもなるだろうと察した。
ドラグーン清掃局に登録される前に、アンには人間としての教育の他、自らの魔力をコントロールする徹底的な教育が成された。
そして、現在の彼女は十七歳。十歳からの七年間を、練磨と共に過ごしてきた。それが二度と「悪夢」を起こさないための、有効な手段だと信じて。