1.髪を切った日はお出かけを
町に朝が来る。日光の訪れとともに彼女は目を覚まし、まず、洗面所に行って顔を洗って口をすすぐ。灰色がかった白い長い髪を、三十分以上かけて、毛先から少しずつブラシでほぐす。
風呂に入れるくらい余裕を持って帰って来た時は、眠る前にリボンで肩元に結っていることもあるが、帰って来て、辛うじてパジャマに着替えてから即ベッドに横たわった時の次の日は、癖のないしなやかな髪も悲惨な有様を見せている。
その日の寝癖も、解くためにかなりの労力を必要とした。髪の毛と言うものが、根本は頭皮に埋没していて、毛先は必ず体の下の方向に流れるものであると言う性質があると確信していないと、解くのを諦めてしまいそうになるくらいに。
いっそ、弟のようにショートカットにしようとも思わなくもないのだが、小ざっぱりと髪を切った時に限って、仕事でへまをして長時間の「状態回復」が必要になり、ついでに髪の毛まで元の状態…つまり膝裏に届くくらいのロングヘアに戻ることが度々あってから、長年、髪を切るのを諦めていた。
しかしつい最近。あまりに彼女が有休を使わないので、仕事先から有休取得期間をそれとなく勧められてしまった。九年間、同じ勤務先に勤め続け、蓄積した有償休暇日数は二百日以上。
そして、「これ以上有休を使わないと、我が社が雇用規則違反をしていると陰で罵られることになりますから」と、事務のお姉さんにテキパキと言われ、それは大変なこったと言う事で、とりあえず九十日間の有休取得を予定した。
その、記念すべき一日目が、メデューサの髪のごとく絡み合った寝癖直しから始まったと言うわけだ。
四十五分かかって、肩のあたりまでほぐした。そして思った。
「切るなら、今この髪をほぐしている時間って、不必要じゃないか?」と。
そこで、彼女は手芸用の裁ちばさみを持ってくると、指を切らないように気を付けながら、大体セミロング辺りだろうと言う位置で、髪をバツバツと切り落とした。
足元に白い毛の塊がもっさりと集まり、頭が軽くなる。さっきまで、ちょっとした頭痛でも抱えてたんじゃないだろうかと思うくらい軽くなる。
「よし」と頷き、彼女は増毛用のウィッグが二個か三個は作れそうな毛量の髪の毛を、洗面所のゴミ箱に押し込んだ。
そこそこ日が高くなり、弟が起きてきた。そして洗面所に来て顔を洗おうとして、髪の毛であふれかえっているゴミ箱に気付き、考えるように硬直する。
手をタオルで拭いてから、髪の毛の束を指先でつついてみている弟を見て、キッチンの方から顔を出した姉が「それ私の髪の毛」と言う。
「あ。犬の死体とかではないんだね」と、弟。
「私が、犬の死体をゴミ箱に捨てそうに思えるの?」と、彼女はからかいを受け流す。
「だって、これだけの毛量があれば、ヘアドネーションとかできるし……」と、弟が言うと、「それを忘れていた!」と、彼女は言い出した。ザンバラに髪の短くなった頭を抱え込んで、「前回は有料で理髪店に売ったのに!」と叫び悶える。
弟は姉を見て言う。
「今は、大体の場合、無料提供する物なんだよ?」
「えー。じゃぁ、悩むだけ無駄か」
彼女は肩を落として背を向けた。「ガルム君。グリルチーズサンド食べる?」と聞きながら。
「うん。ありがとう」
弟は答え、出来ればゴミ袋にまとめて縛る所まで、髪の毛の始末を済ませてほしいのだがと心の中で呟いた。
ガルム少年は今年で十四歳になる。去年の秋から私立の中等科に通う事になった。制服を着て臙脂色のリボンタイを付けなければならない、男の子にとっては照れのある服装で通学している。
つい去年まで、ガルムのほうが近所の同世代を「お坊ちゃん」とからかっていたので、立場としては逆転してしまった。
通学して勉強して交流して会話して新しい友達が出来れば、三ヶ月ほどでそれまでの価値観は洗い流された。それだけ、中等科での世界は早急であり、毎日頭に詰め込む情報量は多かった。
成人年齢が十六歳になってからの浮世では、中等科に通い始めた時点で、個人別のカリキュラムが組まれている。
高等科に通い始めるのと成人するのがほぼ同時期なので、何処の高等科に通うかで、その後の就職先はほとんど決まってしまう。時々、博士号を得たり、研究者になったり、その資格が必要な場所に就職するために勉学を続けようと、ユニバーシティやカレッジに通う学生もいる。
芸術家になったり音楽家になったりする者もいるが、そう言う進路を選ぶ子供達にもしっかりとした教育機関が設けられている。
芸術と言うものも、「学んで能力を得る」対象とされているのだ。そう言う、エリートアーティスト達は、独学を好む者達にとっては「お坊ちゃん」と揶揄したくなる存在だろう。
独学で能力を発揮できるだけ、独学愛好家達は能力があるのかも知れない。しかし、基礎からしっかり学んだ技術と言うのは、媒体はなんであれ有能なのだ。その人物が、本来どれだけ芸術的センスがなかろうと、一定の芽吹きは得させるだけの効果はある。要は、学んで得た能力を、どのように人生に役立てるかなのだ。芸術的な分野において、その能力で収入が得られるか得られないかは別の話だ。
画家だって、大量生産されるアクトレスのポスターを描いたり、壁紙のデザインを考案したり、ラベルや切手の絵柄を考えて給料をもらっている時代である。
今日のニュースペーパーでも、芸術は死んだと嘆く、油絵画家のコラムが人気を呼んでいる。
焦げ焦げに焼き上がったチーズサンドを齧り、少年は「美味い」と言うのを忘れない。
姉も、満足そうに自分の唯一の得意料理を食べている。溶けるチーズを挟んでフライパンで焼いた食パンは、ある程度焦げていてもとても美味しい。
ガルム少年はニュースペーパーに目をやったまま聞いた。
「ねーちゃん。休みの間、どうすんの?」
「うーん。そうだね……。旅行に行ってみようかな」
ほぼ思い付きで彼女は答える。「なんかさー、ネイルズ地方に行ってみたいんだよね」
「へー。なんで?」と、弟。
「あっちって魔法の本場じゃん」と、姉。
「そう言えばそうだね」と、弟。
「本場での魔術って言うものを体感したいのよ」と、姉。
「ふーん。気を付けてね」と、弟。
「お土産は何が良い?」と、姉。
弟は少し考え、「ネイルズ地方でしか食べられない珍味」と答えた。
「おっけー。じゃぁ、昼から出かけて来るわ」と、姉は気軽に言う。「何日くらい空ける?」と、弟。
「最低一週間粘る。面白かったら一ヶ月ぐらい滞在する」と、姉は答え、皿を片づけ始めた。




