8.お化けとお化けは分かり合えない
水曜日深夜四時四十五分
毒沼と言う言葉が似合いそうな、広い灰色の沼からガスの気泡が上がっている。
崩れやすい階段を上り、アンはようやく騒ぎの原因になっている場所へ辿り着いた。
辺り一帯には、なんとも言えない腐敗臭が漂っている。
アンは、マフラーで口と鼻を覆った。
「これは……もしかしなくても、もしかしますか」と、ランスロットに聞くと、彼は、「人間の言語を喋れ。意味が解らん」と、つっけんどんに返してくる。
「雑食の動物の内臓が腐った臭いがするのですが」と、アンが苦々しげに言うと、「動物の内臓が腐った臭いを、嗅いだ事があるのか?」と、やはり、愛想ない言葉が返ってくる。
アンは述べる。
「そりゃぁ、清掃員ですから。場所によっては、そう言う悪臭がする物を扱った事もあります」
「なるほど。それで?」
「すっごく、夏に孤独死した人間の屍の臭いそっくりなんですよ。この沼の臭い」
「現在は冬だが」
「いや、要点はそこでは無くて。孤独死した人の臭いと言うか、孤独死をした人達の臭いと言うかが、複数形で鼻腔に迫ってきますね。虫に食われてたりすると、より一層臭いが強くなって……」
「頼む」と、初めてランスロットが下手に出た。「あんまり描写するな。考えたくないんだ」
「はい」と言って、アンは黙った。
それから箒を構え、房に魔力を込めながらずるずると引きずり、沼の周りを歩き始める。青白い光が、箒の房の先から地面に帯を引く。
何してんだ? とは、ランスロットも聞かなかった。何かの術の準備であるのは分かるからだ。
延々と広い沼の周りを歩いて、アンが一周して帰ってくる頃には空が仄かに明るくなり始めた。
「では、行きます」と言って、アンは青白い光の帯から数歩距離を取り、箒を逆さにして構える。「壱、弐ぃいいい……参!」と言う、気張った声と一緒に、魔力を集中的に込めた箒で、光の帯を叩いた。
その時に響いたドゴンッと言う音は、一体何の音と表せば良いだろう。でっかい花火が地面で鳴り響いたような、一大事の音である事は確かだった。
水曜日朝六時
町の電灯が消える時間である。そして、昼間に活動するタイプの邪霊達が遊び始めるはずの時間である。家の中に閉じこもっている者達も、目覚めと共に狂気の中に陥る時間帯であったはずだった。
その日の町は、静かだ。常に響いていた人間達の悲鳴や泣き声や呪文や大声の独り言等は、全く聞こえない。それどころか、周りで騒ぎがない事を不思議に思った住人達が、自ら家の鍵を開け、外に出て周りの様子を見たくらいだ。
町の人間達は互いを見つけて、「何があったの?」「大丈夫なの?」「変な奴等が居ない」と言い合った。
町は静けさを取り戻した。その空は未だどんよりと曇ったままだが。
補給所に戻ったアンは、針金の塊や複数のボルト、そしてゼンマイと交換してもらったパンと缶入りのカフェオレで胃と喉を癒し、仮眠室が空いてることを知ると、足取りもおぼつかなく歩いて、ベッドに倒れ込んだ。
あっさり睡眠の中に沈みこみ、寝息が聞こえないくらい細い息で呼吸をしている。
「何があったんだ?」と、シェル・ガーランドはランスロットに聞いた。
人形に宿ったランスロットは、褐色の肌と癖のある黒い髪、そして黒い瞳をしている。異国の装束に包まれた体は屈強と言うほど筋肉は付いていないが、通常の力仕事くらいは出来そうな体格である。
所詮、紙で作った擬似的な姿だが。
「無茶も良い所だと思うが、あの沼を全部『浄化』してみせた。俺は手伝ってない。魔力を使い過ぎて顔面蒼白になってたんで、部屋の前まで運んできただけだ」
「化物だね」と、ガーランドは扉を閉じてある仮眠室を見ながら、賛辞を贈った。
水曜日朝七時
仮眠室に閉じ込められたままのエムは、疲れ切っている魔法使いの女の人の様子を見て、「酷いことをされた気分」を覚えた。
夢見ていた天国を奪われたような、あのテレビを壊された時と同じ気持ちがした。
昨日起きた時は、優しそうなふりをしてたけど、やっぱり酷い人なのかな。あの、「家族」って言う連中と同じものなのかな。僕から「世界」を奪おうとしているのかな。
そんな思いを抱いたが、彼の麻痺した意識には感情的な「悲しみ」も「憤り」も無かった。
テレビを壊された時に叫んだのも、「そうすべきだ」と思ったからそうしただけだ。そう行動すれば、願う何かが叶う気がした。
しかし、この女の人はそれすらも邪魔をした。
結界の外を、複数の蝶が飛んでいる。男の子は結界の中から手を伸ばし、掴むと同時に硬化する蝶を口に運ぶ。
口の中に甘味を残すものをボリボリと齧り、飲み下していると、隣の部屋に続く扉のレバーが倒れた。エムは、集められるだけの蝶を手に鷲掴むと、服の中に隠した。残った蝶は、空中に搔き消えた。
部屋の中に入ってきたのは、知らない人だった。メッシュの入った焦げ茶色の髪の毛と青い目の女の人と、褐色の肌と黒い髪の男の人。
「エム・カルバン」と、メッシュの女の人のほうが声をかけてきた。「これから、お前を迎えに来る人達が居る。その前に、幾つか質問に答えてくれ」
エムは、少し考えた。そして、反対に「僕、この町を、離れるの?」と問い返した。
女の人はエムの様子を見るように黙ってから、「そうだ」と答えた。
「ふーん」と言って、エムはパジャマの中に隠していた蝶を取り出し、敢えて彼等の目の前で齧ってみせた。
それがどんな形をしている何なのかが分かるように、嚙むときにワザと口の端から食べクズを溢した。
「何を食べている?」と、男の人のほうが聞いてきた。
「ビスケット」と、エムは答えてから口の中身を飲み込み、「貴方も、食べる?」と聞いて、硬化した蝶々を一枚差し出した。黒い筋の走るオレンジ色の羽を持つ、小さな蝶だ。
「遠慮しとくよ」と、男の人は答えた。そしてこう続ける。「依存していた邪気を失っても、まだ『それ』が食べたいのか?」
「邪気……」と、エムは呟いて、「よく分かんないけど、僕には、これが美味しいんだ。焼くのに失敗したパンや、腐りかけた牛乳よりね。それに……貴方達が、僕に何をしようとしてるかは、知ってるよ」と言う。
自分の腹を撫でて見せ、「『これ』を取り出して、調べたいんでしょ?」と問いの形で挑発する。
「僕のお腹の中に、何が入ってるのかを知りたいんだ。僕の命が無くなっても、構わないんだ。そんな事に協力すると思う?」
エムがそう言うと同時に、結界の周りにオレンジ色の蝶の群れが浮かび上がった。