6.悪夢の詰まったビスケット
火曜日朝九時
少年はずっとブラウン管を眺めて居た。
青い芝生。澄み渡る空。テーブルクロスのかけられた円卓の上に、ご馳走とケーキと色取り取りのお菓子が並び、薔薇色のお茶が用意されている。
其処に映っている人達は、優しい笑い声を立て、明るい会話をしていた。円卓の上で大皿から食べ物を取り分け、互いを労わり合っている。
こんな「家族」が存在するわけがない。
家の大人達はそう言っていた。
「普通の人間」だったら、陰で誰かの悪口を言って、誰かを殴っているんだ。こいつ等はカネをもらって「平和」の演技をしているだけだ、と。
幼い子供の腹部に、大人の男の拳がめりこむ。リビングの床に叩きつけられた体が跳ねて転がった。少年は胃の内容物を嘔吐した。
罵声が飛ぶ。「床を汚しやがって!」
少年を殴った男は、子供の頭をつかみ、吐瀉物の上に押し付ける。
男は命令した。「全部吸い込んで、飲め!」
呼吸をふさがれた少年は、吐瀉物を泡立てただけだった。
「悪い事をすると、ああなるんだぞ」と、老人が拷問を現場を指さして言う。
拷問に遭っている少年より幼い、三歳の男の子と、二歳の女の子は、頷いた。
「食事よ」と、大人の女が無感情に声をかけてくる。「また吐かせたの。頭にすれば良いのに」
男が憤りを女にぶつける。「お前が飯を食わせるから、汚い物が増えたんだろうが!」
「体重が増えてないと、私が責められるのよ」と、女は静かに言い返した。
料理の並んだテーブルを、家族五人は四角く囲む。
少年は、床に置かれたワンプレートから、残飯と呼べる物を手に取り、口に運んだ。
生焼けのパンは発酵し過ぎており、野菜の切れ端は、煮られてさえいない。
三歳と二歳は、自分達が食べている物を持って床に座っている少年の目の前に行き、「ふわふわに焼かれたパン」や、「新鮮な果実」を齧って見せた。
少年が、それを見て喉を鳴らすと、三歳と二歳はニタニタしながら、駆け足で食卓に戻るのだ。
何かの割れる音がした。
キッチンのほうで、大人の女と、三歳の声がする。
「なんでコップなんて持ってたの? 蛇口には届かないでしょ?」と、苛立たし気に女が言う。
「だって」と、三歳の言い訳が聞こえた。「兄ちゃんがこうしろって言った」
それを聞くと同時に、女は少年の名を叫んだ。
どんな目に遭うかは分かっている。だが、その儀式を済ませないと、残飯がもらえないかもしれない。
少年がキッチンへ行くと、女が少年の頬に、力一杯張り手を食らわせた。
硝子の破片が飛び散ったままのシンクの前まで少年を引っ立て、三歳に謝れと命じる。
少年は、沈黙していた。
女は、再び少年の顔を殴り、命じる。「嘘を吐いてごめんなさいって、言うだけでしょ!」
少年は、思わず口走った。「嘘なんて吐いてない!」
それを聞いた女は激高し、少年の顔中が腫れあがるまで、その両頬を平手で殴り続けた。
男が酒に酔っ払った夜。
男は、妻の髪を掴み、自分の拳のほうに女の頬を近づけながら、勢いをつけて殴り飛ばすと言う遊びを行なっている。
女の体は、ソファの肘掛けの上に倒れた。
「頭にしろって言ってたよな」と、男はどら声を出す。「頭なら、幾ら殴っても良いんだよな?」
殴り飛ばされた女は、家具に打ち付けた腕を押さえながら叫ぶ。
「ふざけないで!」
男は、「お前が頭にしろって言ったんだ!」と言葉を発し、また妻の髪を掴んで殴る。
女の顔が腫れあがって、見るに堪えなくなると、男はおもちゃに飽きたように女を放り出し、寝床へと向かった。
泣いている女の声を遠くに聞いて、少年は身を震わせた。
家の何処かで顔の腫れた女に遭遇すると、「何見てんのよ」と言いがかりをかけられ、「私が殴られてるのが、そんなに楽しい?!」と言う声と一緒に、喉を拘束する手が伸びてくる。
少年は、緊張からトイレに行きたくなったが、尿意を我慢した。
一晩中我慢できるわけがなく、寝床として与えられている毛布の中で漏らしてしまった。
そして翌朝、乾燥したアンモニアの臭いに気付いた男が、それを理由にまた少年を殴るのだ。
町の発電所が動く日。男は見栄を張って、「テレビジョン」と言う機械を買った。公共放送を、魔力が無くても視聴できる機械だ。
その画面を覗き込んだ少年は、それに魅入られた。朝も夜も、いくら拷問に遭っても、その画面を見つめ続けた。
物置小屋に閉じ込められると、窓硝子を破って居間に行き、テレビを点けた。
その途端、彼を引っ立てようとした家族達は、体が急速に痩せ、末端から塵と化して消えた。
彼は見つめ続けた。邪気に憑りつかれた、優しい世界を。
幼い少年を脇に抱きかかえ、アンは箒で空中を飛翔している。走っていた途中で、邪気に追いつかれそうになったからだ。
五歳程の男の子の体は異様に軽く、パジャマの上から触れても骨っぽくて、折れそうな手足をしている。
逃れてきた家を中心に、鴉のような邪霊が集まって行く。それは渦を巻き、溶けあい、暴風を伴って膨れ上がった。
術のかけられる隙はあるだろうか。そう考えるが、片手で握っている箒は安定しない。「手放し運転」は出来そうにない。
何処からか、邪霊の竜巻の中に、小さく凝縮した魔力の塊が撃ち込まれた。瞬間的に六つ。正確に渦の表面に六芒星を描き、術が起動した。
暴風が止まった。
「アン・セリスティア。お前は退避しろ」
ランスロットからの通信が入った。
「補給所に子供を連れて行け」
「でも……」と、アンは食い下がる。
「お荷物抱えてる今のお前に何ができる」
ランスロットは、ばっさり切り捨てた。
「すぐに子供をフィンの所に! 以上!」と言って、通信は消えた。
火曜日昼十時
空を舞う邪霊達を避けに避け、片手運転で箒を操り、アンは補給所に辿り着いた。フィン・マーヴェルに少年を預け、フラフラしながら仮眠室に入る。
アンがベッドに崩れるのを目の端で見てから、フィンは急患を寝かせた簡易ベッドに状態回復の術をかけた。
しかし、少年の体内に力が届かない。何かがつまっている。そう察したが、此処は補給所だ。人手もないのに、解剖まがいの事は出来ない。
溜息をついて、フィンは男の子の周りに結界を仕込んでおいた。
火曜日十二時
左腕の痺れに気付き、アンは目を覚ました。左腕の中程が冷たい。何かの邪気に長時間さらされたように。
部屋の奥を見ると、簡易ベッドで救助してきた少年が眠って居た。
「ビスケ……ット」と、彼は呟いている。
簡易ベッドを囲んでいる結界の外に、蝶のような生物がいた。
少年の手が無造作に蝶を掴むと、それは作り物の様に硬化した。彼は結界の中に固まった蝶を引きずり込んで、食べ始めた。
心地の落ち着いたらしい少年は、簡易ベッドから体を起こす。
アンは、「あの」と、声をかけた。「さっきは、ごめんね。ひどい事言って」
「ひどい事?」と、少年は聞き返す。
「お前はもう死んでるんだって……」
「そのくらい、なんでもない」と、少年は無表情に言う。「テレビを壊されちゃった方が悲しかった」
「君は、あれで何を見ていたの?」
「外の世界。綺麗で、賑やかで、楽しい事がたくさんあるんだ」
「そう。君の名前は?」
「エム・カルバン」
「エム? どう言う字を書くの?」
「アルファベットのエム」
「さっき、蝶々を食べてたように見えたけど」
「ああ、あれ。ビスケットだよ。いっぱい食べたから、僕、太ったんだよ?」
そう言って自分の腹を撫でて見せる彼の手元では、内臓だけが膨れ上がっていた。