15.ルビドゥス兵器戦―青い目朱い目―
アプロネア神殿の併設薬学所に、水槽一杯の紫色の液体が戦地から送られてきた。
神殿の敷地内には、すぐにでも戦地に帰りたがっているような兵士達が、ジープの中で待機中だ。
連絡は受けていたが、半日もせずに「検体」が送られてくるとは研究員達も思わなかった。これをまた半日もかけずに研究して、その成果を兵士達に持ち帰らせなければならない。
「こう言う予定を立てる参謀達は、暇だと思うか?」と、ある学士が言う。
「走り回ってるのは、隊員達だからな。参謀達は余裕だろう」と、別の学士も言う。
「今回の作戦の隊長の身分は?」
「大尉」
「何でも話し合わなきゃダメか」
「ワンマンで動かすより良いと思ったんだろ」
「私達が成果を出したら?」
「向こうの誰なりが昇進するだろうな」
「じゃぁ、仕事をしましょうか」
ブツブツ言い合いながら、学士達は、予め送られてきている分析表と、検体の様子と組成が合っているかどうかを確認し始めた。
碧色竜眼。古い血筋の中に「妖の気」が混じっている場合、非常に低確率で発生する特性である。
多くは片目のみに発症し、現代では術のかかったコンタクトレンズを装着する事で、虹彩の色や極度の弱視をカバーできる。
「コンタクトレンズが使えるようになる前は、毎日眼帯をしてた」と、アヤメは話す。「その眼帯をわざわざ引っぺがそうとする奴等に抵抗できる力が欲しいって思って、体を鍛えたの。そして今に至る」
そう話しながら、アヤメは左目の下の頬に触れてみせた。コンタクトレンズを外すのかな? とアンは思ったが、その様子は見せずに手を下ろす。そして続ける。
「この目に関しては、そんなに秘密ってわけじゃないけど、観た人を驚かせちゃうって事で、なるべく隠すようにしてるんだ」
「確かに、最初に見た時はビックリしました」と、アンは答えた。「すごく珍しいオッドアイだなって思って」
「奇妙な目と言われれば、確かに奇妙だね」とアヤメはあまり気にする様子も無く返した。
昨晩の眠る前のテントでのやり取りを思い出しながら、アンは本部キャンプの中の掃き掃除をしている。相変わらず朝ご飯と昼ご飯はクラッカーだけなので、お腹が空いて仕方ない。
こんなにカツカツな食生活で、みんなよく健康な体が維持できるな……と思いながら、アンは辺りを見回してみた。
銃を持った誰かが、キャンプ内を足早に進んでくる。見張り番をしている兵士だ。
彼は通信兵のテントにさっと入り、しばらくして持ち場に戻って行った。それと同時に、アンの耳にも「広域通信」が聞こえる。
「要塞東部方向のキャンプ跡地から、『生還者』が近づいて来ています。汚染レベルは八。迎撃部隊に撃墜要請。本部キャンプは警戒を」
アンはそれを聞いて、走らないように、それでもできるだけ急いで治療所に向かった。
テントの出入り口を潜り、片耳を押さえているノリスに駆け寄る。
「ノリス。汚染レベル八って……」と言いかけると、彼女は口元に一本指を立て、まだ通信に耳を傾ける。
治療所の外もガヤガヤ言い出した。ノリスは治療班への指示が無かった事を確認してから、「汚染レベルは、邪気にどの程度感化されているかの数値です」と答えた。「レベル八は、その存在で周囲を汚染する可能性があり、本人の自我が確認されない状態の事ですね」
本人の自我が確認されない状態……ドラグーン清掃局での基準なら、「第十六段階」に相当する。存命には早急な浄化が必要。汚染が「第十八段階から第二十段階」になった者は、ほとんどの場合、浄化の術をかけると同時に死亡する。
「私、『生還者』の浄化に……」と、アンがテントの外に出ようとする。その腕を取って、ノリスが引き止めた。
「いけません。貴女はこの後、第三部隊と一緒に戦線に行かないと」
アンとしても、城の浄化に協力するのは断る理由もない。だからと言って「生き残れるかもしれない目の前の誰か」を見殺しにするのは、清掃員としては受け入れられない。
アンは深く息を吸って吐き、努めて静かにこう述べた。
「戦線に行くことは承知しています。だけど、『レベル八』の生存者達にも、存命のチャンスを」
すでに強い意志を固めている彼女の目を見て、ノリスは唇を嚙み、掴んでいたアンの腕を、そっと離した。
「そうですね……。だけど、無理はしないで下さい」
その言葉を聞いてアンは頷くと、テントを後にし、箒にまたがって空中に飛翔した。
壊滅した東部キャンプで、不幸な事にも生き残ってしまった兵士達は、腐り始めた体を軋むように動かし、本部キャンプを目指している。
肉の塊になった足を進める度に、全身を痛みが貫いた。表皮は有害な薬品をかけたように焼け爛れ、正常な感覚は麻痺している。
汚れた水が喉から入って、内側を腐らせて行く。苦痛の中に、綺麗な死に際は望めなかった。頭がいくら死を悟ろうと、体は生き続けようとする。
誰か助けてくれ。潰れた声帯からそう声を出すと、グボッと言う泥を吐くような音の後、ゴォォオオオオと言う唸り声になった。
その言葉は、「健康な状態に戻してくれ」ではなく、早く楽にしてくれ、の意味だった。生きるにしろ死ぬにしろ、一刻も早く苦痛から逃れたい。
出来る事なら、誰かにとどめを刺してもらうために、一番人が残って居そうな本部キャンプへ、誰と無く移動を始めたのだ。
せめて、狙撃兵の射程範囲まで移動したい。頭でも心臓でも良い、生き残ろうとするこの体を壊してくれ。
そう念じながら、彼等は腐食した体を引きずって行った。
本部キャンプの空の遠くから、何かが飛んで来る。
視力がほとんど残っていない目には、その人物の黒い服と、背のほうに白い柔らかな物が見えただけだった。
天使だ、と思った。喪服のような黒いワンピースを纏った、白い羽の天使。
ぼやけた視界の中、天使は片手をこちらに向けて、何か言った。聞き取る耳は潰れていたが、死するか生きるかの選択を問われたのだと思った。
どちらでも良い、この苦痛を消してくれ。そう意味を込めて、唸り声を止め、それまでおぼつかなく前に伸ばしていた腕を引いた。
天使の周囲から、青緑色の透き通った光が放たれた。
正常な呼吸が出来ていることに気付き、カーソンは意識を取り戻した。土の上に敷かれたシートの上で横たわっていたようだ。
翼竜達の襲撃を受けて腐食した時の服ではなく、新しく別の軍服を着せられている。
「俺は……俺達は……」と言って、辺りを見回した。
テントの中の向かい側のシートの上で、首に包帯を巻いた者達が衛生兵から看病を受けている。
彼等は、カーソンが起き上がったのを見て、初めは驚いたような顔をし、次に顔をほころばせ、ハハッと軽く笑った。
そして明るく言う。
「意識を取り戻したぞ! 賭けは『俺達』の勝ちだ!」
そう言って、首に包帯をしている兵士の一人が、水の入ったボトルを放り投げてきた。
「飲めよ。祝杯だ」と言って。
カーソンはそれを受け取って、キャップを開け、口に含んだ。ぬるいミネラルウォーターだが、最高の酒と同じくらい美味かった。




