1.テルス防衛戦―泥沼への招待―
大量の雨を含んで空を渦巻く雲のように、そしてそれよりもずっと濃度の濃い泥を含んだような煙が、城の中には立ち込めていた。
廃墟と呼ばれる類の建物だが、此処に「何か」が住むようになってから、国を守る仕事をする者達は、野ざらしになっている朽ちた城を見逃して置けなかった。
迎撃部隊は、その建物のある山を更に見下ろす、周りの山々の崖から、木々や岩場に身を隠し、照準を合わせるためのスコープを覗いていた。
東西南北、夫々の陣地で、彼等は守りの姿勢を崩さない。
見つめる廃城は、天然の防壁と堀になる峠に囲まれた、かつては軍備を備えた城だった。今は何者かに乗っ取られ陣地とされていると言う事から、そこは通称で「要塞」と呼ばれていた。
その要塞を覆う煙の中から、何かがゆらりとでも姿を現わそうとする気配を察したら、素早く引き金を引くように指示されている。
「アヤメ。交代の時間だ」と、ある兵士が仲間に声をかけられた。
ライフルを構え、アーマーを着た小柄な――どうやら女性らしい――兵士は、仲間に持ち場を譲って、徒歩でキャンプまで移動した。
キャンプに移動するまでも、緊張を解くわけに行かない。彼女達が警戒している周囲にも、あの奇妙な「煙の中に居る何か」達はいるはずだ。
春の山中は、湿度が高い。そのお陰で、冷涼な気候も、多少和らいで感じた。
草と落ち葉と低木でごちゃごちゃしている足元を、山ネズミが走って行く。邪気に侵食されているのか、落ち葉の間を走るネズミは、背骨の変形したヒレがあった。
敢えて捕食者に見つかるように作られているのだろう。
移動中に発見した異変は、そんな些末な物だった。特別、報告しなければならないような大きな変化ではない。
邪気の集まる場所に住んでいれば、どんな生物でもある程度の変形は免れないのだ。
木を燃やす煙のにおいがする。キャンプは近い。しかし、早く休憩したいなどと言う焦った様子を見せれば、上官からの蹴りと、「死にたいのか!」と言う怒声が待っている。落ち着いて、歩を進める。
キャンプの入り口で、見張り番の兵士と短い挨拶をする。
「異常なし」と告げれば、「異常なし」と返ってくる。来るまでの道に異常なし、キャンプの内部は異常なし、の意味だ。
キャンプ内に入っても、治療所以外でヘルメットを外すことは出来ない。キャンプの中も、いつ「異常あり」になるかは分からないのだ。
休憩用のテントに入り、手にしていた銃を、自分の番号の振られているホルダーに置く。
テーブルに設置されている軽食から、クラッカーを一枚口に放り込み、噛みしめながら水のボトルを手に取り、蓋を開けて飲み干す。ふやけたクラッカーは塩分と炭水化物の塊になって、喉を下って行った。
休憩中の備蓄による回復で許されているのはこれだけだ。
夕飯と睡眠の時間までは、軍医術師達の「状態回復」と言う能力で体力や精神力を長続きさせる。
状態回復が受けられるテントに移動しようとすると、通信が起動し、「緊急指令」と、キャンプに居る兵士達に集合の合図が出された。
まだ体力は戻っていないが、水だけでも飲めてよかったと思いながら、アヤメはキャンプの中央にある広場に向かう。慣れた様子で整列し、目の前の壇上に立っている上官からの言葉を待つ。
「要塞内部、地下で、多数の『胚』が出現した。孵化と同時に群れが岩盤の脆い場所を通って外に向かうだろう。先んじて、現地に攻め込む必要がある」
その次の言葉を予感して、アヤメは喉を動かさないように唾液を飲んだ。
「第一部隊に、三十名を望む。志願者はいるか?」
体力に余裕があり、士気の高い者達が手を挙げる。その数は四十八名。
上官は頷き、その四十八名から腕の立つ三十名を選び出し、残り十八名を第二部隊の候補に置いた。
無理矢理手を上げなければならない事態にならなくてよかったと、アヤメは人知れず息をついた。
出発する第一部隊を見送り、改めて治療班のテントに行く。長い行列を無言で待ち、足がだるくなった頃に順番が来た。
医術師の前に置かれた椅子に座る。
医術師とその助手が、胸の音を聞き血圧を測る通常の診察をしてから、十五分間「状態回復」の術をかけてくれる。
物質的にはクラッカーと水だけで体力を持たせているのだ。魔術くらい使わないと、あっと言う間に飢餓に取って食われる。
ヘルメットを外したアヤメは、兵士にしては髪が長く、黒い髪を短くポニーテールに結っていた。片目にはコンタクトレンズを入れているらしく、黒い虹彩の周りがうっすらと水色がかっている。
「要塞には、泥みたいな邪気が立ち込めてる」と、アヤメは医術師に告げた。「そんな中で、人間は『攻撃行動』なんて、出来るものなの?」
「邪気に意識を侵食されなければ、可能だね」
アヤメの背に手をかざして力を送りながら、そう医術師は言う。
「通信兵達が、邪気の除去のための、専門の人員を呼び寄せている。幾つか伝手を当たってるみたいだけど、何処の誰が来てくれるって言う保証は……」
そこまで口にして、「望みが薄いだろう」と言いかけた言葉を飲み込んだ。
ヘルメットを被ったままの茶色の瞳の女性兵士が、慌てた様子は見せずに、それでも素早くテントの中に入ってきたからだ。その兵士は言う。
「アヤメ。さっき集合した奴等の中から、術が使える者はもう一度集まれってお達しだ」
「了解」
そう答えたアヤメは、髪をヘルメットの中に押し込み、医術師に「ありがとう」と礼を述べると、素早く席を立って広場に向かった。
治療開始から五分もしないうちに広場に戻る事になってしまった。
夕飯の時間まで、体力持つかな……と、アヤメは危ぶんでいた。
「補助部隊の緊急編成を行なう。術に覚えのある者を中心に。西部隊ルイザ、シノン、ガート。東部隊、アヤメ、ナタリア、タイガ。中央から攻め込む第二部隊を掩護せよ」
そこまでの言葉を、上官は落ち着いて、丁寧に、威圧的に唱える。
「参謀!」と、さっきアヤメを呼びに来た女性兵士――ナタリア――が手を上げ、意見する。「第一部隊に、何があったのですか?」
彼女の質問は、「何かあったのですか」ではない。何かあったのだから、緊急で第二部隊が編成されたのだ。術の使える者達の掩護を擁して。その必要がある「何があったのか」を、ナタリアは訊ねたのだ。
「第一部隊は、要塞を覆う黒い霧の中に侵入した数分後に、通信が途絶えた。生体反応はあるそうだ。彼等を助け出す事が、第二部隊の任務である」
参謀は見誤っている、とアヤメは思った。心の中で念じる。「あれは霧じゃない。泥だ」と。
邪気の泥の中に、術も備えずに部隊を侵入させたのか。
その泥の中に、状況を多少まともに出来るかも知れない数名の人員を使って、次の兵士達を送り込もうとしている。
ミイラ取りはミイラになるだろうし、溺れる者は藁にでも縋るだろう。全員が邪気の泥の中に埋もれる予感を覚え、アヤメは一度ぎゅっと目をつむって、周りに知られないように、深々と息をついた。
正式入隊から二年。死ぬのには、まだ早い気がするのだが。
そんな事を思う反面、頭の中を、この十七年間の走馬灯が駆け抜けた。




