最果ての地~エリスの場合~
エリス・ヴィノ。不和の女神の盃を冠して、そう呼ばれる者。白い髪と雪影の瞳を持つのに、オレンジがかった不思議な皮膚を持った青年だ。
彼が旅する事になった、数多の時間と空間の一番最後の場所に、彼は今、佇んでいる。
自転が止まり、焼け爛れる昼と、凍り付く夜しかなくなった世界で、彼は「夜」の空間に居た。岩砂漠と満天の星空。僅かな悲しみと、多大なる幸に包まれて。
「終わる時が来たんだね」と、彼は言った。
彼が追って来た長い長い「テラ」と言う女神の物語は、このひとひらの時間では語りつくせないだろう。
だからこそ、彼と「テラ」は、長年寄り添い合った夫婦のように、お互いの言いたい事が分かった。
「ガルムが幸せで良かった」と、エリスは感想を述べた。「あの、感情の薄い少年が、顔を真っ赤にしてたね。酔っ払った時より」
その呼びかけに応じて、テラは彼の前に、やがてガルムの妻となった人の姿を作った。
「私は、真面目な子って、嫌いじゃないの」
そう述べる声は、若かりし頃のアヤメ・コペルそっくりだ。
「貴方の料理は、芯の通った味がする。鮮やかで、真っ直ぐで、それで、時々遊び心がある」
その言葉は、ガルムの求婚に答えた時のアヤメの台詞だ。
「私も、そんな人生の側に、付き添っても良いのかな?」
エリスは悪戯を思いついた子供のように目を細め、かつてのガルムの台詞を思い出す。「是非、お願いします」
そう答えると、目の前の影はアヤメの姿からアンの姿に変わった。
「あらあら。ガルム君は、そんなに余裕のある笑みは浮かべて無かったよ? 姿勢だって、肩が上がっちゃってて、声なんて振り絞るみたいで……」
そう続けようとするので、エリスは一度目を閉じて苦笑いを浮かべ、「テラ。本当に君は意地悪だな」と答えた。
目の前のアンの影は、自分の事のように幸せそうな笑顔を浮かべた。
三十歳になっても、アンは結局、結婚しなかった。いや、正確には、結婚できなかった。
ノックスの「崇拝心」にも、ジークの「忠誠心」にも、ラム・ランスロットの「親心」にも、どうにもアンの気持ちは敵わなかったからだ。
生前のアンは、それとなく、三人に「結婚ってどう言うものだろうね」と声をかけた。
が、ノックスは、「俺の永遠の女神で居て下さい」と述べて来たし、ジークは「君とそう言う話をすると、僕がメリュジーヌに殺されるの」と述べて来た。
唯一人生のヘルパーを許可してくれたラムも、「俺に出来るのは、意識の町を管理する事だけだ」と述べ、確かに睡眠中のアンが意識の町に出かけると、時間の許す限り、保護者のようについて歩いてくれた。
ラムとアンは、パートナーとして秘密の話もするようになり、どのようにガルムとアヤメをくっつけるかも、画策したのは彼等だ。
何の事はない。軍を辞めてしまったガルムと、通常勤務のアヤメが、折々に出会える場所と時間を作り、言葉を交わしたり、手紙の交換をしたりする機会を設けさせた。
そして、アヤメもだいぶ良い年齢にもなってきて、前線に出ることを期待されなくなった頃。除隊しようにも、実家に帰りたくないんだと溢した彼女に、ガルムが決死の覚悟で求婚したのだ。
「あの! うちに、来て、くれれば……。ご飯とか、作りますよ?」と言う、変な言葉で。「ねーちゃんも喜ぶだろうし、あの……除隊するなら、ポーカーを何時間やっても不都合無くなると思うし」と。
そして、さっきの「付き添っても良いのかな?」から、「是非、お願いします」の件になる。
アヤメの言う「嫌いじゃない」は、「大好きです」と言う意味である事は、その後の彼等の夫婦生活の中で明らかになる。
エリスはその記憶を、ずっと大事に抱えていた。どれだけ時間と空間の波にもまれても、ガルム・セリスティアとして生きた、ほんのわずかの時間だけは、忘れずに「閉じ込めて」ある。
「彼を待ってる人達がいる」と、アンの姿と声をした女神テラは、片手を差し出して言う。「さぁ、ガルム君を、手放してあげて。月が消えないうちに」
そう彼女が言うように、月は空にあった。目に鮮やかな満ち月。アンが昔に言っていた、女神ディアナの月だ。
エリスは、何時も片手に持っていたトランクの鍵を開け、下側を岩砂漠と化した地面に置いて、蓋をゆっくりと開いた。
その中には、幾つかの雑貨に紛れて、虹色の液体の入った瓶がある。
「アヤメが初めての結婚記念日にくれた香水」と、エリスはテラに説明した。「一生使おうと思って、五年に一回使うか使わないか……。まさか、僕の一生がこんなに長いと思わずにね」
その言葉を聞きながら、アンの姿をしたテラは、懐かしい物を思い出すように微笑んでいる。
「今は、別の物がつまってるんでしょう?」
そう揶揄うように問われて、エリスは頷く。
「ああ。何だろう……時間って言うのは、良いワインみたいなんだね。長い間にゆっくり寝かせるほど、花みたいな綺麗な香りになる」
そう言いながら、エリスは香水の瓶をトランクから取り出した。栓を開け、瓶の口を月にかざす。
「もう、閉じ込めないよ。ガルム。此処で、さよならだ」
虹色の光が、緩く螺旋を描きながら月へ向けてほどけて行く。ふわりと宙に浮かび上がった時間の流れは、蒸気を含んだ花のような香りを漂わせながら、月へ向かった。一匹の龍のように。
最愛の妻と姉、そしてガルムに関わった多くの人々は、その向こう側の世界で彼を待っていただろう。
エリスは、空になった瓶を地面に置き、トランクを閉じる。
月が、ほんのりと赤く染まった気がした。
そして、エリスはそれが間もない事を知った。「テラ。君とも、お別れだね」
「ええ。最期の言葉を言わせて」と、女神の影は大地に溶けながら言う。「今までありがとう、エリス。それから、これが私の最後の贈り物」
その言葉が終わった途端、エリスの体の周りに、燃えるようなエネルギー流が集まった。
それは、遥か遠くの星。「アイラ24」と名付けられている、別の銀河の惑星を示している、「流」だった。
そこまで跳べるか?
エリスは考えた。
テラと言う星の向こう側から、太陽の爆発が押し寄せてくる。
いや、跳ぶんだ。この「龍」に逆らわずに。
そうして、星の遺した一つ児は、彼方へ向かって飛び立ったのです。
何百万年先になるか、何千億年先になるか、全く分からない、長い長い旅路へと。
そして今、彼はあなたの前に訪れています。




