ラムの仮宿暮らし4
「私の名前は『サム』。ファミリーネームは思い出せない。一番遠い記憶は、何処かに旅行に行ったこと。国内の旅行だったと思う。妻や、他の旅行者と一緒に、洞窟の探検ツアーに出かけた。
洞窟の中は薄暗く、明かりで照らされていた。天然の状態で保存されている場所もあった。旅行のアトラクションで、『声を出す大穴』に手を突っ込むと言う催しがあり、観光客達は『オオオオオ』と言うような音を立てている穴に手を突っ込み、声を塞ぐと言う悪ふざけを楽しんでいた。私も、その悪ふざけを楽しんでいた一人だった。
ツアーの帰りに、私は手で握って隠せるくらいの小さな鉱石を拾い、ジャケットのポケットに入れた。旅の記念にしようと思ったのだ。私は、自分がポケットに入れたものを忘れたまま、残りの旅行を楽しみ、家に帰ってきた。
少しずつ、周りの様子が変わってきた。まず、私は喉に異常を覚えた。食べ物や飲み物の飲み下しが上手く行かなかったり、穴違いをして咳き込むことも度々起こった。胸の中が痛むような、おかしな感覚を覚え、病院にかかった。初期の肺炎に似た症状だと言われた。炎症を抑える薬をもらい、数週間通院した。胸の違和感は、一度消えたように思った。
やがて、私は眠っている間にいびきをかくようになった。喉の奥から、あの声を出す大穴のように『オオオオオ』と言う、おかしないびきをかくのだ。喉に舌の筋肉が垂れ下がっているから音が出るのだと、当時の友人に言われ、舌の筋肉を鍛える運動なども行なってみた。
その頃から、段々と寝つきが悪くなってきた。眠って居ても、おかしないびきをかいて、その声を自分で聞いて起きてしまう。同時に悪夢を見るようになった。『オオオオオ』と、いびきの音を出している私の喉に、誰かが腕を突っ込むのだ。最初は、妻がいびきをうるさがって口を塞いでいるのだと思った。しかし、起きてみても妻の姿は無いし、妻は随分昔から自分の部屋で眠って居る。
私は、喉と胸に起こった異変と、その異変に関する悪夢に、睡眠を妨げられるようになって行った。そして睡眠が妨げられるたびに、何かが私の中で目覚めようとし始めた。
私は、光を放つ存在から王冠をいただくと言う夢を見た。光を放つ存在の前に膝を折ると、頭の上に輝く王冠が乗せられた。夢の中の私は、自分が偉大なる者になるのだと思っていた。そして、実際に目が覚めてみると、隣には、やつれ果てた妻が居た。
妻の髪は真っ白になっていて、顔のしわは深く、あの楽しかった旅行の時の、若々しい妻では無かった。何十年も経過したような、老いた妻を見て、私は『どうしたんだ、お前』と声をかけようとした。すると、妻は私の口が動くのを見て、私の口をふさいだ。妻はひどく落ち着いた様子で、『喋らないで。これを飲んで』と言って、私の口に錠剤を含ませた。その錠剤を飲み込むと、意識が朦朧として、私は眠りと覚醒の間に置かれた。
それから、一切は闇の中に包まれた。私の意識は、起きているのか、眠って居るのか分からない。生命を維持するための意欲もわかず、唯ぼんやりと、永遠のような時間を過ごした。私の体が生きて居られたのは、多くは妻のおかげだろう。妻は正常な意識を失った私を、長い間、看病してくれていたようだ。そう分かるのは、床に崩れ、臨終を迎え、冬の冷たい気候の中を、ゆっくりと腐敗して行く妻の亡骸を見ていたからだ。
薬の影響が無くなったためか、私の意識は一時的に回復した。そして、私は何故か、『偉大なる女王が崩御した。追悼の歌を歌おう』と言う、突飛な思考に駆られた。実際に口を動かしてみると、濁った声しか出なかった。長い間仕事を忘れていた声帯は、『オオオオオ』と言う音しか出せなかった。歌声は次第に抑揚を持ち、強まり、弱まり、私は歌い続けた。自力で歩くこともできず、床に座り込み、ただひたすらに。
歌い続けていると、彼等が私を捕らえ、妻と家から引き離し、檻に閉じ込めた。声が外に届かなくなる不思議な檻だ。彼等は、そうせざる得なかったのだ。私の狂った感覚と、『声を発させないための薬』の影響で、壊れてしまった意識には、他人の言葉による説得を受け入れる余地が無かったからだ。
檻の中に入ってからの事は、よく覚えていない。
ある日、不思議な石が運ばれてきた。鉱石ではない。宝石と呼ばれる石だ。その石の中から、私の中に、強い力が送り込まれた。狂った感覚と、麻痺した意識が、整え直されるような気がした。そして、座って居る事しか出来なくなっていた私の体は、筋肉の脆弱性など関係なく勝手に動き出し、まるで普通の…若者のように身軽に、通常の生活を送り始めた。
私の中に注がれた力は、唯の魔力と言うものではなく、人格を有し、名を名乗っていた。彼は私に、チャンスをくれた。『言葉』を発さない事を条件に、私の中で何があったのかを記す機会をくれたのだ。
もし、この文章が、今後の医療のために役立つのなら、私は、偉大なる寛容な医師として、彼の名を記しておきたい。ありがとう、ラム・ランスロット」
その文章は、結界に覆われた独房の中の、決して汚れない場所に置かれていた。紙の束は丁寧に畳まれていた。
そして、「サム」は、与えられた万年筆で自分の喉を突き刺し、喉から血を溢れさせて死亡していた。傷の痛みも、流血の苦しみも感じさせない表情は、僅かに微笑んでいるように見えた。
「不死不眠の患者も、死ぬんだな」と、訃報を聞いたランスロットは言う。そして、紙の束に目を通しながら、尋ねる。「ここに書いてある、『声を出す大穴』と、『拾ってきた石』って言うのは、今は?」
「『声を出す大穴』が観光名所だったのは、五十年以上前だ」と、レヴィンは言う。「邪気が発されてることが確認されて、洞窟への侵入は禁止された。サムが拾ってきた石は、ゴミ屋敷の清掃の時に発見されて、浄化して廃棄されてる。感染を防ぐための薬品が、不死不眠の患者の意識の混乱に拍車をかけるって事は、この文章で示されてる通りだ」
「医学は見直されるだろうな」と、ランスロットは人形に宿ったまま悩むように言う。「しかし……。簡単に死ぬなよな」
「患者本人にとっては、辛すぎる状態ってのはあるからな」と言って、レヴィンはランスロットの肩を叩き、「今日は飲みに行くか?」と尋ねた。
ランスロットは紙の人形に宿ってる間は、飲食をしない。もし、飲酒を楽しむなら、誰かの体に宿る事になる。
「遠慮しとく」と答えて、ランスロットは反対向きに座っていた椅子の背もたれに、顎を預けた。