忘れてきたこと~ガブリエルの場合~
今日はアンの誕生日だそうだ。野暮用があると言って、ガブリエルはアン達と共同生活をしているマンションのある町から、田舎のほうに出かけた。
町の中の花屋で、黄色いマーガレットが目に入った。
幼い子供の面影を思い出す。まだ十歳にもならない頃の、黄緑色の瞳をした少女の面影。
その彼女に、ガブリエルはかつて名前を与えた。
「レーネ」
そう名付けられた少女は、ガブリエルの下で文字を習い、言葉を習得し、淑女としてふるまえるように躾を受けた。
その後、幸福な過去と未来と言う幻想に踊らされたガブリエルは、レーネが命を絶つ要因の一つを作った。
ガブリエルは覚えている。
自ら作り育て上げた娘の喉をつかみ、その組成を破壊した時の感覚を。
黄色いマーガレットの花束を持ち、ガブリエルは自分が覚えている、「最後にレーネが消えた草原」に足を運んだ。
人間や馬車が通る舗装のために、砂利が敷き詰められてた場所だった覚えがある。
木立がちらほらと枝を揺らし、遠くに人の住む村の影が見え、手近な所に林があった。
あの時は、村に立ち寄り、術師を紹介してもらい、封印を解いてから、やけに魔力量が少ないと思った。
その直感は確かだったのだ。
レーネについて、それ以上の詮索をしなくてよかったと、ガブリエルは思っている。
地面に花束を置き、いつかレーネが触れたかもしれない砂利の幾つかに、手を置いてみた。
太陽の熱で暖められた砂利と土は、柔らかで心地好い蒸気を仄かに上げている。
「何もかもは手に入らないものだ」と、ガブリエルは心の中で唱えた。
そして、あの時のように、ここから見える小さな村へと足を向けた。
砂利の道の先に、小屋のような家が、ぽつぽつと集まっている。二階建て以上の物は少ない。
少し背の高い空き家を見つけて、見物がてらに扉を押してみた。ドアは簡単に開いた。やはり、小屋を間仕切りしただけの簡素な家だ。二階部分はロフト状になっていた。
「あら。何処の方?」と、干し草の入った籠を担いだ村娘と思しき者が、空いたドアから声をかけてくる。その手には、水の入った土瓶がある。中で小さな魚が跳ねている風だ。
「すまない。旅の者だ」と、声をかけてから気づいた。「ここは、お前の家か? ラビッジ?」
「ああら。ご存じなの」と、村娘の姿の傀儡人形は言って、家に入ってくると、急にぐったりと地面に倒れた。
魔力波を追ってロフトを見上げると、黄色い体毛をした獣人の少年が、青い瞳を光らせていた。
ラビッジが現在「居住」してる時間軸は、双神達を屠った後の世界が続いている。その軸のガブリエルは、ガルム・セリスティアから譲り受けていた魔力を持ち主に返した。
そしてガルム・セリスティアは、軍を辞めずに働いている。彼等の家にガブリエルが同居することになるのは変わらないようだが。
ラビッジは、干し草と薪で火を熾した囲炉裏に五徳を置き、鉄瓶をかける。その周りに、湖で釣った小さな魚を、串に刺して焼いた。
「心配な事は何もない。唯、僕がこっちには来れなくなる事はあるかもしれない。全く別の分岐として、どんどん距離が離れて行ってる所だから」
「空間干渉が届かなくなると言う事か?」と、ガブリエル。
「そんな感じ」と、ラビッジは答え、小魚が良い匂いをさせ始めたのに気付いた。「塩かける?」と、客に聞く。
「頼むよ」と、ガブリエルは応じた。
ラビッジは相手の語気の穏やかさに気付いて、にやっと笑って見せた。
「なんだ?」と、ガブリエルは聞いてくる。
「いや、すっかり元通りだなって思って。一時期は、僕が引っ立ててやらないと、生きた屍みたいだっただろ?」
ラビッジはそう言って、鞄から携帯用のペッパーミルを取り出すと、ピンク色の岩塩を、小魚の上で砕いてみせる。
「その実、生きる意欲は、湧いてきてる?」
「意欲か……。エネルギーは満ちているが、目標が思い浮かばないな」
そうガブリエルが返すと、ラビッジはこんがりした串を一本、相手に差し出した。
ガブリエルは焼けた魚を受け取り、かぶりつく。
「難しく考えなくても良いんじゃない?」と、ラビッジは気軽に声をかけ、やはり焼けた魚にかぶりつく。咀嚼して飲み込んでから、「また従僕を作ってみたりしたら?」と提案する。
ガブリエルは自嘲を浮かべ、「同じ失敗をしないかが危ぶまれる」と答えた。
「怖がってたら、何にも始まんないよ? ステージに立つなら技を持ってないとね」と、ラビッジ。
「私は、お前の渡り歩いてる大舞台には不似合いだよ」
「またまた。褒めても魚以外は何も出てこないって」
かつての相棒達は、そんな事を言い合いながら一時を過ごした。
帰路に就いたガブリエルは、町の一角まで「転送」で移動して、その後は列車に乗った。
縮力機関と言うものを使っている列車は、馬車や車よりずっと速いスピードで、一定区間を走破する。あの城にずっと閉じこもっていたら、知っていても実際に乗りはしなかっただろう。
ガブリエルなりには旧友だと思っている獣人の少年と、いつかは会えなくなるかもしれないと知ったわけだが、特に寂しさは思い当たらない。
彼は今、向こう側の軸で「人形術師」として名を馳せている。旅芸人として各地を回る他に、劇場から招待されて、大ホールで群像劇を開いたり。
その人形劇を観られたら良いのに。人間大の人形達が、泣いたり笑ったり踊り狂ったりする、束の間の演劇を……そんな事を思い描いた。
セリスティア家に帰りつく頃には、十八時を回っていた。
合鍵でドアを開けると、煮こまれた野菜と鶏肉とスパイスの香りがする。
「お帰り」と、ガルムが声をかけてきた。
「ああ」と、声に出して応じて、「ただいま」と続けた。
ガルムはひどく嬉しそうに目元を笑ませる。
「ガブリエルが『ただいま』って言うの、初めて聞いたかも」
「あまり、言う習慣がなかったからな」と、ガブリエルは言って、長い黒髪を手で梳いた。「アンはどうした?」
「クリームチーズケーキを八分の六、食べちゃってね」と、ガルムは説明する。「部屋にいるけど、お腹の中で胃袋がもんどりを打ているらしい」
そう述べてから、ガルムはカウンターテーブルの上の小皿を指さす。
「そのチーズケーキの八分の一。ガブリエルの分」
「デザートの前に、夕食を頼む。メニューは?」と、ガブリエルはカウンター席に着く。
「鶏もも肉と野菜のスープだよ」
そう言いながら、ガルムはシチュー皿にスープを盛り付ける。
「ガブリエルは、何処行ってきたの?」
「何処でもない」と、素っ気なく返事をしてから、気が変わった。「ガルム。お前は……」
「何?」と、ガルムは湯気を上げるスープ皿を片手に、聞き返す。
「『アルア』の意味を、知りたくないか?」
ガルムは、皿をテーブルに置いてから、視線をそらして少し考えて、「知りたいかも」と言う。
「あの言葉は……」
そう切り出して語られた言葉は、ガルムとガブリエルだけの、秘密となった。




