忘れてきたこと~ミノンの場合~
アンが自宅を持つようになり、定期検査以外ですっかり神殿から離れてしまってからも、ミノンは巫女の仕事を続けていた。
神殿でも、「邪気の完全変換による資源化」についての研究が進んでいる。その事で、アンから、かつての清掃員時代の経験を聞く時もある。
ミノンは、アンから聞き取り調査をしながら、何となーく気づいていた。
アンの目の中に、誰かが居ると。
近年、彼女は結婚と言う選択をしないかと、研究員から催促されており、それなりの人物を選んで「人生の相棒にしました」と、報告してくれた。
相手は男性で、ファルコン清掃局に登録している清掃員である。
霊符と言う特殊な術を使い、ファルコンの清掃局員達の多くがそうである通りに、他の清掃員の仕事の補助や補佐を得意とする。そして何故か、彼は霊体しか存在しないのだ。
良い逃げ道を見つけましたね、と、ミノンは思っておいた。言葉には出さないが、「その手で来たか」と納得してしまった。
今後、彼女が子供を生んだりして、その子供が親の手から取り上げられたり、かどわかされたり、研究の対象に成ったり……と言う、もし人間の親をやるなら、絶対に避けたい事態は避けられたのだ。
だが、ミノンはもう一つの可能性を考えて居た。
アンの実弟のガルム・セリスティアが子供を残した場合、その遺伝情報を調べたいと、うちの教授達が思わないわけがないなぁと。
なので、ミノンは念のために、アンと弟が住んでいると言うマンションの住所の記録を、誤魔化して記録しておいた。
マンションの番地と部屋番号を少しずらしてあり、もし誰かが赤子を盗みに来ても、神殿に登録してある住所を信じるなら、アン達の住んでいるマンションの別棟の、二つ下の階に入り込む事になる。
其処に、悪意のある者が侵入したら、実際にアン達が住んでいる部屋では、静かに警報が鳴ると言う仕掛けを組んだ。
その事をアンに告げると、「なんだか、色々すいません」と謝られてしまった。
「お詫びを言いたいのは、私の方です」と、ミノンは返した。「私も、これで『チャラ』になるとは思いません。けど、これからもよろしくお願いします」
この「お願いします」は、良き研究対象であってほしいと言う意味も込められている。
研究対象として協力してくれている間は、教授達も、彼女を危険な魔獣として追い立てようとはしないだろう。
その内情を分かっているのか、アンは、明らかに苦節の分かる苦笑いをして、「どうぞ、よろしくお願いします」と、握手をしてくれた。
現在の所のガルム・セリスティアは、軍に所属していた頃に貯めた貯金を使って生活しているようだ。
非営利活動法人と言う、利益を求めない会社のような団体に所属して、魔力を持つ孤児達に教育を与えたり、養父母を紹介したりする仕事をしている、と、アンから聞いている。
その仕事に行くときの様子を観察できないかと、研究員に無茶ぶられ、ミノンは、アン達のマンションから、ガルム青年が出て来るのを数週間張り込んで待ったことがある。
最初の一週間は、待てども待てども、スーツ姿で出かけるガルム青年を見つけることは出来ず、本当に仕事をして居るのかを疑ってしまったりもした。
であるが、何も「玄関から出て行って、玄関から帰って来なくても」良いのだ。アンだって、毎日窓から箒で出勤して、窓から箒で帰ってきている。
そこで、窓の見える方面に回って、アンが「出勤」するのを確認した。そして、マンションの中で、誰かの姿が消えたのも。
そうなのだ。位置情報さえしっかりしていれば、「転送」と言う術で、家の中から外へは移動できるのだ。
しかも、蓄積魔力と発動魔力は極弱く、残存魔力に関しては「跳んだ先」を読み取れるだけの魔力量も無かった。
元軍人なだけはあるなぁ……と、ミノンは感心していた。
そんなわけで、アンの一家は上手に世間を渡りながら、仲良く暮らしているらしい。
ミノンの心配事としては、アンの目の中にいる「誰かの影」に関してである。明らかに、アンとは「思考の形」が違う誰かが、アンの中にいる気がする。
元々彼女は、朱緋眼を持っていた時代に、贄として吸収された者達の複合意識と言うものも持っていて、常に誰かに話しかけられているような状態だったらしい。
その複合意識と言うものが戻ってきているのだろうか、と仮説を考えたが、複合と言うほどの「人数」はいないように思う。
どちらかと言うと、アンと同等の、もう一つの存在が、彼女の内側に住み着いているような感覚である。
その事については、アンには質問しない事にしていた。ミノンの他に気付いている者達の間でも、ちょっとした噂話くらいの情報しか流れていない。
その噂話が、悪い方向に向かわないように調整するのも、ミノンの仕事である。
アンにほとんどつきっきりになって面倒を看ていた事のある、巫女のソアラは、どちらかと言うと周りの「悪い噂」に気付きにくい。
それは欠点ではなく、単純に彼女自身が純真な人なのである。他人の悪意に気付けるのは、その悪意と同じものを共有している人々だけだ。
以前のミノンだったら、そんな事は分かりたくない、私も純真な巫女で居たいと願い、聞いても聞かないふりをしていただろう。
しかし、共有している悪意を、さらに悪化させるか、それともその拡散を踏みとどまらせるかを選択できる事に、引け目を持つ必要はない。
「そう言う事を言葉に出すのは、良くないと思うの」
ミノンは、自分の周りで「悪い噂」を聞きつけると、そう述べる。
そして、こう釘を刺すのだ。「貴女も、巫女でしょ?」と。
巫女たる者は、巫女らしくあれ。
それは、恐れを通り越した彼女にとっての、哲学のような物だった。
深くため息を吐くような呼吸をしてから、ミノンは空を見る。
例え、憧れる者に届かなくても。
そう思いながら見上げる白い雲の中に、箒で飛び回る白い髪の魔女が居る気がした。




