30.虹の向こうへ
複数の声が、彼女を呼んでいる。喜びもって、悲しみをもって、怒りをもって、そして楽しく歌っているように。
彼女は、アーネットと名付けられ、浄化能力に特化した「神」と成るための力を与えられた。元々持っていた「魔神」レベルの能力に上乗せして、彼女の来訪によって確実に流転の泉が清められるように。
だが、その能力は使う当てもないまま封じられ、彼女の意識は「世界の隙間」を漂っている。
何処に属す事も、何処に向かう事も許されない。許しがあるとすれば、彼女を呼ぶ声のように、彼女もまた誰かを呼ぶことを許されていた。
――○○○。私は此処だよ。
世界の隙間の中で、彼女はずっと呼び続けていた。過去に流れながら、ずっと呼び続けていた。自分達を生む事になる遠い流れを辿りながら、その片割れへと。
何処の軸にも因らない、「世界の隙間」の中には、双子の影達が小さな島を作っている。
ある未来軸で「主」に吸収された以外の彼等は、過去の方向に向けて飛散し、その閃きは小さな星のように見えた。
冬の星は瞬いて見えるんだって。
何処かで聞いた言葉を思い出す。
エリスは、ずっと遠くから聞こえているその信号を受け取りながら、「世界の隙間」を泳いだ。
「エリス。こんにちは」と、声をかけてくる双子の影があった。褐色の肌と黒い髪と、青い瞳をした少女だ。
「キーナ。こんにちは」と、エリスも答えた。
「彼女を探しているの?」と、キーナは積極的に聞いてくる。
「うん。何処かで見かけた?」と、然程期待もしないでエリスは訊ねる。
「ううん。でも、たぶん…『波』が、あっちの方に向かってるから…」
そう言って、キーナはしなやかな腕を、ある軸の「過去」の方向へ向ける。
その方向は、時間軸を花で言うなら茎の部分に当たる、大きな流れの根元だ。生物の発生よりも、永劫の者の訪れよりも、もっと遥か彼方の昔。星が生まれる時までの彼方だ。
彼女を呼ぶ「波」は、そう意図していないとしても、彼女を過去へ過去へと押し流して行く。
エリスは咄嗟に、何も言わずに「波」の向かう方へ飛翔しようとして、我に返ってキーナを振り返った。
キーナは、それを見て、首を横に振る。
「良いの。私に構わないで、行って」と、キーナは片手に青い光の粒子を集め、エリスに向けて、それを放った。
エリスは複雑そうに顔を曇らせてから、キーナと視線を合わせ頷き、過去へ向けて飛翔した。
一つの花が咲いている。時間軸の根源から、幾重にも柄を伸ばし、その先々で蕾を咲かせながら、その花は未来へ向けて背を伸ばしていた。
光で出来ているような柄を持ち、美しい花弁を咲かせる其れは、その周りに群がる小さな光達を守っているようだった。その、花の周りで忙しなく飛び交う光は、まるで働き蜂のように見える。
その「生きる花」の柄は、時折、身をくねらす龍のように見えた。二つ児を生むまでの長い長い時間を、一つの龍と例えるなら、それは巨大な流れであった。
星が生まれ、「永劫の者」が到来し、世界に毒素が混じってからの、長い時間をかけた反逆のための、「テラ」と言う女神の名を付けられた星の、意志の痕跡である。
彼女のその根源へ向けて、今、一つの意識が流れてきている。
テラは、その者の来る流れが生まれてから、それを受け止めようかどうしようかを、ずっと考えていた。
受け止めてしまえば、その者の持っている「個」と言う概念を砕いてしまう。その者はテラの一部として吸収され、消え去ってしまうだろう。
一時は、その者も「世界から消え去る事」を望んでいたらしい。それが望みなのならば、受け止めてしまおうか、と、テラは考えた。
しかし、こちらへ流れて来るその者の意識は、ずっと「未来」の方角に、呼び声を発している。
誰かを呼ぶと言う心は、きっと、まだその者が「個」である事を諦めていない証拠であろう。だが、その者が軸の根源に到着してしまうまで、距離はあまりない。
この者の呼んでいる誰かを、一刻も早く…テラはそう考え、ある青年に、それまでとは異なる意識と責務、そして力を与えた。
それにより、時間軸は四方八方へ大きな分裂を起こした。柄はさらに細かく伸び、蕾が無数に膨れた。
誰かを呼びながら、彼女はテラの意識野へ近づいて来る。
それを追うように、遠くから一閃の青い光が見えた。
「エリス!」と、テラは彼を呼んだ。
力なく伸ばされていたアーネットの手を、青い光を纏う青年は、しっかりと握りしめ、我が身の方へ引き寄せた。
テラは、自分の意識野に侵入しかけたアーネットとエリスを、受け止めるのではなく、意識体が壊れないように、優しく弾き返した。
燃え上がる光の渦の中に消えようとしてたアーネットの手を掴んだ瞬間、エリスは自分とアーネットを「跳ね返す力」が、時間軸の根元から起こったのを察した。
その威力はすさまじく、意識体は星の経過した時間を瞬く間に飛び越えて、「現在軸」のアーネットとエリス―アンとガルム―の体の中に舞い戻った。
ぜいっと息をして、ガルムは目を覚ました。ベッドの上に体を起こし、片手を見る。「あちら側」で、重要な事が起こったのは覚えている。自分が、消えかけていたもう一人の姉の手を、掴んだことも。
部屋はまだ暗い。ベッドに横たわりなおして、天井に見える「ユグドラシルの枝」の壁紙を観た。
世界は巨大樹じゃなくて、巨大な花だったんだ…と、何となく考えた。もう一度眠りなおして、まだ「あちら側」の事を覚えていたら、その事を姉に教えてやろう、とも。
朝日が射すと同時に起きる癖のある姉は、また今日も、張り切って溶けるチーズのサンドウィッチをフライパンで焼き始めるはずである。
姉の呼ぶ声がして来たら、何でもない風に部屋を出て、何でもない風に「今起きた」と挨拶をするのだ。
目を閉じると、仄かな景色が見えた。其処には、一匹の白い龍が居る。その龍は、身をうねらせて空へ舞い上がり、虹のかかる空の先を示して飛翔する。
それは、人間と言う種が肉を持って生きられる時間より、ずっと長く遠い道のりだ。
エリスは身震いがするような思いを持って、その先を見つめた。彼に課せられた責務は、まだ遥か彼方まで続いて行くのだ。星が命を終えるその時まで。
「ガルムくーん! 起きてるー?!」と、キッチンの方からアンの声が聞こえてきた。