22.壱・弐・参
アンは最後の印を描き、飛翔してくる死霊に貼りつけた。仕上げの「浄化」の力を送ると、本来は罠として発動するはずの殻が、アウレリアの周りに現れる。
死霊使いの周りには、彼女を囲むように無数の「斜め十字」の印が浮かび上がっていた。死霊使いは、それが作られる事に気づいていなかったわけでは無いだろう。
意識を乗っ取られている状態である彼女も、その術を望んでいたのだ。
アウレリアは胸の前で両腕を躍らせ、黒雲ほどの死霊の中から幾つかを選び、その死霊と邪気を混ぜる。
力を増幅された邪霊は、狂気の笑みのような物を浮かべて、敵対者めがけて高速で飛翔してきた。
邪霊の作り方だけは、一切、油断ない。それを飛ばす行方だけは、ひどく「アンにとって都合のいい方向」を、規則的になぞっていた。
「壱!」と数えて、アンは魔力を通した箒の柄を横に構え、邪霊の体当たりを右に受け流した。
二匹目が、上空から頭の上に襲い掛かってくる。
「弐!」と数えて、箒を薙ぎ払い、その邪霊の身を左にはじく。
止めとばかに集中して飛翔してくる、数体の邪霊の間をすり抜け、アンは「参!」と、言う掛け声と共に、青く光る箒の房で「斜め十字」の印で出来た殻を叩いた。
遠くで、魔力波による爆発音が聞こえた。ジークの部屋は窓が無いが、町一帯を覆っていた邪気が消滅して行くのが、外部観察のためのウィンドウで分かった。
どうやら、アンの方の術も間に合ったらしい。
部屋の中のジークは、まるで狂気の舞を舞っているように、愛機を操っている。
ペダルを何度も踏んでウィンドウを切り替え、人差し指と親指以外の六つの指で、術式のプログラムコードを書いているのだ。
その部屋には、灰色の髪をした女性か男性か分からない人物と、メリューだけが通されていた。
メリューは、両手首に吸盤式の、魔力波測定器と吸引機を付けられ、そのコードの先はジークの操っているマシンの中に埋没していた。彼女本人は、床の凸凹の、出っ張ってる方に座っている。
――ねぇ、アシュレイ。
メリューは、側に居る灰色の髪の人物に、念話を送った。
――まだ、時間はかかるのかなぁ?
アシュレイと呼ばれた人物は、子供を落ち着かせるように笑顔を浮かべて、少女の前に屈みこむ。
そして、彼女と同じく念話で言う。
――そうだな。もう少しかかりそうだ。喉が渇いたのか? それとも、お腹が減った?
メリューはそれを聞いて、困ったように眉を寄せた。
――どっちも大丈夫。
それを聞いて、メリューがその後に続けたかった言葉を察したアシュレイは、幼子の頭を軽く撫でた。
――それなら良いんだ。眠くなってしまったら、教えなさい。
――はーい。
やり取りの後で、二人はジークのほうを見る。
空中に浮かんでいる光の文字と図形を、物凄い勢いで読みこんだり組み替えたり削除したり切り取って貼り付けたり、新しい情報を入力したりしている。
――これを観てる間は、眠くならないかも。
そう呟いたメリューの念話を聞いて、アシュレイは少女の隣に座り込み、幼い肩を支えた。
――もう直、全部は丸く収まるよ。
エヴァンジェリーナは、非常に申し訳ない気持ちを抱きながら、「意識の町」の中の警察署を訪れた。
此処の独房の中に、隔離が必要な人物が保護されているからだ。別に罪人では無いが、元々「人を収容する機能」のある建造物が少ない町の中で、一番守られる施設と言うと、此処しか無かったのだ。
タクシーから降りた彼女は、まるで見舞いに来たように、小さなブーケと土産の入っている紙袋を持っていた。
署の入り口の前で、警備をしている警官達に挨拶をすると、彼等は無線で内部の者と連絡を取ってくれた。
案内係の署員に出迎えられ、エヴァンジェリーナは房へと向かう。
その人物は、ノイローゼの熊のように、暇そうに独房内をうろうろと歩いていた。元々筋肉を使う仕事をしていたらしいので、体を動かさないと落ち着かないのだろう。
肉を纏ってこの町に封印されている人物。
「お久しぶりです。ご加減は?」と、エヴァンジェリーナは丁寧に柵の向こうに声をかけた。
その人物はエヴァンジェリーナの前に歩いてくると、白い髪を掻き、「とても暇だと言う事以外は大丈夫です」と答えた。
「心労は察しております」と、町長は答えた。
案内係が房の出入り口を開けてくれたので、腰をかがめて其処から房の中に入り、ブーケと手土産を渡した。
「見た目は、ブーケとゼリー菓子に見えると思いますが?」と、確認すると、白い髪の人物は「確かにそう見えますね」と答える。
「どちらも『精霊力』で作られたもので、霊力を回復してくれます。ブーケは、身近に置いておくだけで、ゼリー菓子のほうは食べると言う動作で肉体を回復させてくれるでしょう」
エヴァンジェリーナがそう説明すると、差し出された土産を受け取りながら、その人物は礼を言う。
「お気遣い、ありがとうございます」と。
「それで…。貴方の責務の事ですが」と、町長は本題を話し始めた。「もう一度確認します。本当に、彼等は私達に協力してくれるのでしょうか?」
「安心して下さい」と、受け取った土産を、房の中の粗末なテーブルに置いて、その人物は言う。
「あの目は、『嘘をついている奴』の目じゃなかった。彼等は、本気なんです。じゃなきゃ、僕を此処に連れて来るなんて言う無茶を、通せるはずがない」
「そうですか…。いえ、そうですね」と呟きながら、エヴァンジェリーナは表情を落ち着け、瞳から不安の色を消した。「私達も、貴方が見込んだ彼等を、信じましょう」
町長の言葉を聞いて、白い髪の人物は独り言のように言う。
「全部は、終わってから明らかになるでしょうね。誰かが事件を記録するのか、それとも空想として語られるおとぎ話になるのかは、分からないけど」
姉の瞳の色より薄い、雪影のような青い瞳をした青年は、柵のかかっている、はめ殺しの窓を見上げる。
「もし、『過去のこの時点でこの要因があったら、未来がこう変わったんです。もし、この要因が無かったら、別の未来があったんです』なんて言われたとしたら、貴女は信じられますか?」
そう聞かれて、エヴァンジェリーナは控えめに自嘲した。
「きっと、私も、『空想として語られているおとぎ話』だと思うでしょうね」
青年も笑顔を浮かべ、こう返した。
「それで良いんです。そうじゃなきゃ、人生が複雑になりますから」
決して軽々しい口調ではないその言葉には、複雑な人生を歩むことになった人物の、少しの気苦労がうかがえた。