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ストリングトーンの虹へ向けて  作者: 夜霧ランプ
第十章~取り返した未来~
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11.叶わなかった安らぎ

 呼吸すら自由に成らない苦痛の中で、少年の意識はうっすらと覚醒した。しかし、目を覚ます事の苦しみを覚えている体は、彼の意識を眠りの中に引き戻す。

 睡眠中の夢すら見ない、さらに深い眠りの中へ。


 暗い世界に、ずぶずぶと沈んで行くような感覚だった。太古の記憶と言うのは、海を連想させると言う。少年は、確かに暗く広い海の底へ、沈んで行くような感覚を覚えていた。

 何かに追いかけられる事も、高い所から落っこちる事も、蛇に絡まれる事も、それ以外の全ての現象も、何もない、唯、暗く温かいだけの海だ。

 呼吸は深く、一定の酸素を吸う事を求められていたが、長年沁みついた生物としての慣れにより、眠っている間は呼吸の不具合は気に成らなかった。

 意識を持って淡く目を覚まし、自分で呼吸をしようとすると、その「機械によって一定を守らされる息」は、とても苦しかった。


 外の世界では、工場と言うものがたくさん作られている。工場の中では、機械の働きに合わせて人間も一緒に働く。何時間も何時間も、同じ動作を続けて、ろくに食事を食べる時間もない。

 工場労働者達は、リキュールを飲んで飢えと渇きを凌いでいた。そんな彼等の手元や身体は、何処かゆらゆらと揺れているように見えた。

 ああ、僕とおんなじだ。

 少年はそう思った。機械に繋がれて、休む時間もなく呼吸をさせられて、何も考えないように、苦しみを遠ざけるように、ゆらゆらと生きている。

 彼等は苦しいのだろうか。

 少年はそう思いなおした。

 苦しいのだったら、もっと深く眠れば良いのだ。その状態は生きている事の苦痛を忘れさせてくれる。それこそ、怖い夢でも見ない限り。

 そう考えても、アルコールで常に気が高ぶっている労働者達は、安らかで健やかな、深い眠りと言うものも忘れているようだった。次の日に頭痛と共に起きると、気付けにまたリキュールを飲んでいる。

 リキュールと言う液体は、苦しい時のお薬なのかもしれない。

 少年はそう発想した。

 お薬がずっと必要になってしまったら、その人はそろそろ死んでしまう頃合いだろう。彼等に残されている時間は、どれほどの長さだろう。そして、その道のりは、ずっと苦しいのだろうか。

 それならば、もっと深い眠りの中へ……。

 そう少年が思った時、とある工場地帯の真上に、巨大な「弾丸」が現れた。

 邦零大洛(ソルアーニム)で作られて居る者の中でも、特別に大きな弾丸だ。それを落とした爆撃機は、牙陵洛(エスティラーニ)の所有するそれによく似ている。

 少年が、屍のような眠りに落ちてから見るようになった「夢」の中で、何度も想像し、望んでいたものだった。

 世界を終わらせてくれるなら、こんな風が良い。一瞬で、熱と化して消えられる。苦しみも何もなく、真っ白に。

 さぁ、みんな、苦しまないで、眠ろうよ。

 そんな事を考えて、少年は意識の中で微笑んだ。


 朝が来た。

 瞼の外が明かるいのが分かった。息は苦しくない。胸の中が正常に動いている。鋼のマスクを通さない空気は、消毒アルコールの匂いと、淡い花の香りがした。

 体は動きそうにないが、瞼は開いた。軋みを上げそうな鈍さで、ゆっくりと。最初はぼやけていた視界は、何度か瞬きをするうちに、クリアになって行く。

 少年の周りを、だいぶ年を取った祖父と父親と母親、そして見た事は無いけど、両親によく似ている女の子と男の子が覗き込むように囲み、歓喜の表情を浮かべている。

「シルクテン。分かる?」と、母親が声をかけてきた。

 少年は、何か声を返そうとしたが、「か……」と言いかけて、声がつまってしまった。だが、何とか呼吸を整えて、「かぁ……さ……ん」と、たどたどしく答えた。

「シルクテン。よく聞きなさい。外国の、医術師の人達が、お前の体を治してくれたんだ」と、父親が堰を切ったように言う。「お前が眠ってから、もう、十年も経っているんだよ?」

「もう、お父さんたら! そんなこと言ったら、お兄ちゃんが驚くでしょ!」と、恐らく少年の妹であるらしい女の子が言う。「それより、早く先生呼んで来たら?」

 その言葉を聞いて、父親は「あ、ああ。そうだな。今、お医者さんを呼んでくる」と言って、祖父と一緒に病室の外に走って行った。

「シルクテン。この子は、貴方の妹」と、母親が女の子の肩に触れながら言う。「シアン。ほら、お兄ちゃんの手に触れてあげて」

 女の子は、まだ力の入らない少年の手に、握手をするように触れて、「シアンって、『青緑』って意味よ」と教えてくれた。

 それから、その隣で恥ずかしがっている小さな男の子の手を掴み、兄の手に握手をさせて言う。「この子は、お兄ちゃんと私の弟で、ローシェンナって言うの。難しいんだけど……大体『オレンジ色』って意味」

 女の子の言葉が、途中で区切られているのは分かったが、「ローシェンナ」が「大体オレンジ色」って言う意味だったら大変だと思ったら、少年は自然と笑いが浮かんで来た。


 明識洛(クオリムファルン)の軍部が、眠り人を見つけ出せたのは、多くの所をジークの情報提供による。三日間、事件から手を引くと言っていた無責任者は、ちゃんと三日分の責任を果たしていたのだ。

 ジークが整備主任に渡したファイルには、眠り人の体がある場所と、経歴と人物像、そして何故、彼が「眠り続けているのか」の理由まで添付されていた。

 十年前、当時七歳だった少年は、自転車と車が衝突する事故に遭い、脳挫傷を起こして植物状態に成った。

 恐らく二度と意識が戻る事は無いとされており、彼を敵中から「引き離す」には、術による治療で体の回復と意識の回復を促せば良い。

 ハウンドエッジ基地から情報が上がってきた軍部のやれば良い事は、その人物が誰かなのかを、細かく突き止める所だけだった。

 体がある場所――つまり入院先の病院――が分かっているので、その病院内に居る「事故で脳挫傷を起こした、事故当時七歳の男性」を調査の名目で探すと言う、国際通信の手段を取れば十数分で分かる仕事だ。

 これが出来なかったら、軍部や国と言うより、人間と言う生物は自己生存できないと判断して、ジークも本当に仕事を投げていただろう。


 そんな事情があり、シルクテンの苦しんでいた、長い長い機械仕掛けの呼吸の時間は、幕を閉じた。

 一瞬で焼けて消えてしまうと言う、安息への最短距離を求めた悪夢と一緒に。

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