10.怒りを以て
次の瞬間、ラビッジは森の中に居た。獣人の外見年齢は、よほどの事がないと変貌しないが、僅かな身長の変化で、元に居た軸より「若返っている」のは、何となく分かった。
森の茂みの中に身を隠し、村が焼けて行くのを見守る。
しかし、何時までもそこに居れば、「かつてと同じ」未来が待っているだろう。
ラビッジは茂みの中を歩き、村から逃げ出して呆然としている獣人達に、「子供を狙っている狩人が来る」事を教えて回った。
大人達は急に我に返ったような顔をすると、子供達を連れて森の中の獣神を祀る祠へと身を隠した。
祠と言っても、人間が作るような祭壇を伴った建造物ではなく、自然に出来た岩屋の中に、獲物として食べた動物の骨を、飾っているだけの場所だ。人間から見たら、唯のゴミ捨て場に見えるだろう。
やがて、木々が焼かれたことで上昇気流が発生し、雲を集め、雨が降った。
少し炎が治まった頃、狩り立てようとした獣人達が居なくなっている事に気づいた「狩人」達は、舌を打ち、村の周りを探したが、祠までは見つけられなかた。
村を焼いた炎は、一時の鎮火を過ぎると、森火事を起こした。何日も火と煙が治まらず、見慣れていた豊かな森は失われた。
獣人達は獣神の岩屋に隠れ住み、何日も祈った。命が助かる事……延いては、命を続かせるための、深い木々と深い実りに守られた森が存続してくれる事を。
やがて火は消えた。辺り一面を焼け野原にして。可燃性のある全ての木々が燃えつくされて、ようやく森火事は治まったのだ。
その頃には、泣く子供すらいなくなっていた。みんな、涙の乾き切った目をしていて、何日も手入れをしていない自分達の汚れた毛皮から、ノミを追い払うので精一杯だった。
獣人達は、燃え残った遠くの森に狩りに行く者と、獣神の岩屋で子供の面倒を看る者に分かれた。
そして、遠くの森に行った者達は、ほとんどが帰って来なかった。
人間に狩り立てられたのか、それとも、元の森に居た物より凶悪な獣にでも遭遇したのか、それとも何らかの事故か……そんな事しか、想像する事は出来なかった。
それでも、少人数ながら、岩屋に無事に帰って来れる者はいた。彼等は獣肉の恩恵と、柔らかい毛皮の恩恵、そして道具として使える真新しい骨と言う恩恵をくれた。
岩屋の長い通路の中は、あちこちに獣の毛皮を敷いて、横たわれる場所を作った。
焼け残った素焼きの瓶に、泉から汲んだ水を入れて飲み水を確保した。
しかし、煙で居所がバレるかも知れないと言う恐れと、酸欠への不安から、岩屋の中で火は焚けなかった。
狩りで得た肉や、採取してきた果実は、ナイフで切り分けて生のままで食べた。それでも、生き残った者達を満腹にする事は出来ない。村人はしつこい飢えに悩まされた。
やがて、獣人達は寄生虫を腹に飼うようになり、体の弱いものから、衰弱して死んで行った。
最初は墓を建てていたが、ある時、飢餓で死亡した両親を見守っていた子供の獣人が、夜の闇の中で、自分の親だった者の腕脚の肉を貪っていた。
村人は、その子供を羽交い絞めにして止め、理由を聞いた。
その子供は、特に抵抗するでもなく、口の周りの血を手の甲で拭って、「父さんに、俺達が死んだら、俺達の肉を食えって言われたの」と、答えた。
理由を聞いた者も、その子供を羽交い絞めにしていた者も、脱力するように「制止する気力」を無くした。
その子供は自分の取り分だとばかりに、飢えのままに「次の一口」を食べていた。
他の子供が、「気持ち悪い」と罵ったり、その肉を「横取りする真似」をしようとすると、両親の肉を食う子供は、目をぎらつかせて牙をむき、野生の獣のように威嚇した。
最初は、その子供を憐れむための、たわいない冗談から始まった。大人達の間で話されていた事だ。自分達も、死ぬ時が来たら子供達に食べてもらおう、と。
そんな話をしている大人達の輪の外で、衰弱して死にかけている母親が、自分の子供達に言い聞かせた。
「もし、母さんがこのまま動けなくなったら、貴方達も私の肉を食べなさい。お腹の肉は食べちゃダメ。虫が居るわ。手腕と脚だけ、綺麗に食べるのよ?」
悲しさはとうに忘れてしまった子供達は、まだ痩せていない母親の手腕の肉を見て、唾液を飲み込んでいた。
やがて親は子供に、子供は親に、子の無い大人は仲間達に、親の無い子供も同じ子供達に「自分が死んだらその肉を食べるように」と言い合い、何時しか、それは村の掟であるとされた。
ラビッジは、その風習に馴染めない方の子供だった。生き残った姉と、親の無い子供達と一緒に、籠を担いで遠くから運んできた果実を食べていた。
食べながら考えた。
何処か、違和感がある。何者かが、「そうなるように仕向けた世界」に居るような、気味の悪い感じだった。
その違和感を拭いされないまま、さらに考えた。
何かがおかしい。なんで、こうなってしまったんだろう。
一度、別の方向に分岐した時間軸の中に居ると、自分が「村人を生き永らえさせるきっかけ」を作った事は忘れてしまって居た。
だけど、あの時、思ったはずだ。
「このままじっとしていたら、狩人が来る」
自分は、何故それが分かったんだろう。
人間の狩人なんて、今まで一度も来たことなかったのに。
ラビッジは、覚束ない意識の中でそう思った。
考えろ、考えろ。何かおかしいはずなんだ。
岩屋での生活を送る中で、ラビッジは考え続けた。
数ヶ月が経過しただろうか。
手足の冷たくなり始めた姉に抱きかかえられ、ラビッジも、姉を囲もうとしている村人から守るように彼女を抱きしめていた。その間も、必死に頭を使った。
僕を此処に連れてきた誰か。その誰かが居るはずなんだ。そいつ等が、きっと、村の人達の「狂気の原因」なんだ。
ラビッジを守るように抱きしめていた姉の手から、ゆっくりと力が抜けた。
「ラビッジ……」と、姉は微かな声を出す。「貴方は、私を……」
姉の最期の言葉を聞き、ラビッジは、狂気の渦巻く岩屋から逃げ出した。
ぐわんぐわんと眩暈がする。思考を止めないまま、ラビッジは宵闇の中を走った。
「おや。気に入らなかったのかな?」と、穏やかな男の声が聞こえる。「『皆が生き延びていた未来』は」
「幸せな結末を望んでいたからでしょうね」と、少し皮肉的な女の声もする。「やりなおせば幸せになれるって言う、幻想に縋ってたのよ」
「もしもを考える事は罪ではないけど」と、男の声。「もしもを叶えた事で、罪を着ないと言うわけではないようだ」
「今分かったように言ってるけど」と、女の声。「最初から見えていたでしょう?」
「そりゃぁね。どれだけ貧困でも、生きて行くには、食べなきゃならないんだもの」
二つの声は、嘲笑いもせずに、淡々と話している。ラビッジに聞かれている事も気付かないか、もしくは聞かれていても構わないのか。
その穏やかさに、ラビッジは言いようのない怒りを覚えた。
その者達の策謀に気付けなかった、自分の愚かさにも腹が立った。
二つの怒りは、「別の存在軸」にあるはずのラビッジを、目覚めさせた。
彼の小柄な体は、夜の闇の中に滲むように消えて行った。




