7.捩じれたリボン
波は凪いでいて、箒で空を飛んでいても、そんなに寒さは感じない。唯、急ごうとするアンは、自然に出来る向かい風に身を震わせていた。
ローズマリーの家を去る時、家主は「コートは要らない?」と聞いてくれたが、休息と栄養を得たばかりで体が温かかったアンは「多分、大丈夫」と応えてしまったのだ。
一日経過する頃に、その時のコートが恋しくなるとは思わなかった。
現在、アンは明識洛から海を渡り、理愁洛へ向けて、箒を急がせている。
恐らく海沿いの町では、メリュジーヌの新たな出発を祝う祭りが行われて居るはずである。ジークも疑似形態すら操るのをやめて、祭りに参加しているだろう。
念のためにジークの観察網に「通信」を送ってみたが、返事は無かった。
そうなると、会って直接、話を聞くしかない。もう二、三キロメートルも飛べば対岸に着くと言う所で、大陸の方からプロペラとモーターの唸る音が聞こえてきた。
それを目視する直前、アンは箒を上昇させ斜め上に滑らせた。辛くも、飛んできた弾丸を避けられた。
――何だ、あれ?
アンは疑問を抱いた。
それは本来、爆撃機を墜落させるための飛行機、つまり戦闘機だった。アンはそんなに戦闘機のデザインに詳しくない。だが、それの時間軸がおかしい事には気付いていた。
ものすごく未来の時点から、過去である現在へ送り込まれてきている異物だ。
あれだけ時間軸の狂って居るものを、存在させられる術師……と考えて、アンは何かを思い出しかけた。
だが、かつて自分にかけた封印の影響で、記憶は瞬く間に遠ざかる。
それでも、そんな術を使える人物達が存在すると言う、朧げな認識は消えなかった。邦零大洛の要求から始まった一連の事件の一端として、彼等はアンを始末しようとしているのだ。
大国の意に反したために処刑される魔女として。
明識洛のホストファミリーの家から、レーネは町歩きに出かけていた。従僕である猫のアイラは、首にリードをつけて大人しく主に従っている。
ウィンドウショッピングを何件か続けて、ホストファミリーへのお土産に、缶に入ったクッキーの詰め合わせを買った。店のロゴが印刷された紙袋に、お土産を入れてもらう。
家に帰ろうと踵を返した時、寒気のような物を感じて、胸を抱え込んだ。
邪気を内包する魔力を持った、朱緋色の瞳の放つ視線。アルア・ガルムではない。
アルア・ガブリエル。彼女の気配だ。
そう察したレーネは、自分とアイラの体の周りに「転送」の術を備え、町の中から平原へと飛んだ。
遠くに小さな村を望む平原の中に、レーネの姿が現れる。レーネは、アイラの首輪からフック式のリードを外した。
同時に、レーネの出現地点からそうは慣れていない場所に、男装しているガブリエルの姿も現れた。彼女の目元は、火傷によく似ている痕で赤く染まっている。腫れが引いたばかり、と言う風だ。
ガブリエルは、かつてレーネに教えた言語で話しかけてきた。
「久しい事だ。娘よ。お前に預けた物を返してもらおう」と言う意味の言葉を。
レーネは、この時が来るのを覚悟していたように、キッとした目で相手を睨み、首を横に振った。そしてガブリエルの教えた言葉で言う。
「アルア・ガブリエル。そんな事をしても、貴女の願いは叶わない」
その発言に、ガブリエルは朱い目を瞬き、こう聞く。
「自分の存在を失うのが恐ろしいのか?」
「そう言う事じゃない」と、レーネは相手を睨んだまま、落ち着いて続ける。「死んだ子供達は、帰って来ない。帰って来たとして、貴女の望むようにはならない。過去を変えるなんて、幻想なんだよ」
「ほう」と、ガブリエルは呟き、鼻で笑う。「それは、試してみないと分からないな。試すが故に、お前を作っている力が、私には必要なのだ」
「やめて、アルア」と、レーネは説得を続ける。「貴女は、傷つくだけ」
それを聞いて、ガブリエルの視線は一層冷えた。
「これ以上、会話をする必要は無い。お前は『帰って』来れば良いんだ」
そう告げると、ガブリエルは片手に魔力を集中し、レーネの方に伸ばす。
「嫌!」と、否定の言葉を吐いてから、レーネは片手を砂利の転がる地面に付いた。
レーネの目の前に、魔力の障壁が現れる。ガブリエルの力は、それに当たって爆ぜた。
エネルギー変換……。
ガブリエルは頭の中で考える。
従僕がこれを覚えるとはな。
これだけの魔力を操れるようになった「等級一」を破壊するのは、少し気が引けた。しかし、それほどに洗練された力は、尚の事、必要だ。
ガブリエルは、一歩踏み込み、更に魔力を放った。さっきは直線状に扱った魔力を鞭のように変形させて、障壁を越える事を狙う。
レーネは鞭の軌道をしっかり見極め、屈みこんで地面に手をついたまま、障壁の形を変形させる。ガツンガツンと、石同士がぶつかっているような音が連続的に響く。
レーネが身を護るのに夢中になっている間に、ガブリエルは更に彼女に接近した。
短距離の「転送」を使い、ほとんど瞬間移動に近い速度で、ガブリエルはレーネと間合いを詰める。
障壁を破ってその首を掴み、ガブリエルはレーネの喉を引き絞った。
「無駄に足掻くな。何、分解される時は、一瞬だ」
そうガブリエルが言い放った途端、背後から近づいていたアイラが、ガブリエルの後ろ首を強く嚙んだ。皮膚を裂いて、傷が出来るくらいに。
ガブリエルは片手でアイラを掴み上げようとしたが、猫はひらりと身をかわす。
同時に、レーネも必死に首を搔き、ガブリエルの拘束から逃れた。
じわじわと、アイラの魔力がガブリエルの身に広がって行く。
ガブリエルは、片手で傷口に触れ、治癒を施しながら、「レーネ。私が消えると言う事は、お前も消えると言う事だ」と、脅し文句を言う。
レーネは圧迫された事でひきつっている喉から、途切れ途切れの声でこう返した。
「私は……消えたって良い。だけど、利用される……ために、消える、つもりは、ない!」
その言葉を最後に、レーネは右手を突き出し、ガブリエルに植え付けた魔力を展開した。
ガブリエルの魔力に、封印がかけられる。その途端、レーネは実体を失い、衣服とアクセサリーを、その場に残して消滅した。
アイラは、レーネの身に付けていた腕輪を片方銜え、素早くガブリエルから離れた。
「愚かな娘だ」と、ガブリエルは人間が纏っていた姿を残している衣服を眺め、静かに罵る。
その間にも、アイラは高い木の上に逃げ、木の枝から枝へとジャンプして、平原の林の中に姿を消した。
あの娘の従僕が消えていないと言う事は、残存魔力がまだあるのだろう。
そう見当をつけて、引き上げることにした。戻ってきているはずの魔力を操るにしろ、一度、封印を解除しなければならない。
「手のかかることだ……」
そうぼやきながら、ガブリエルは肉眼で見えている村に向かった。




