2.奪われた心
夜に沈みこんだ森の中で、光魔球の明かりが辺りを照らしていた。枝に阻まれている夜空を見上げる。月の明かりは望めない。どうやら曇っているらしい。
巫女は、ポケットから通信用の水晶を取り出した。アプロネア神殿に通信を通し、当直の職員に、その日の捜査は明識洛の山岳地帯手前で終わったと告げた。
「私が最後に見た時は、西の方に飛んで行きました。もしかしたら、ネイルズ地方に逃げ込んだのかも」
「魔力波の名残は?」と、神殿の方から返事が返ってくる。
「名残を追ってきて、道に迷ったんです。なんだか、あちこちに複雑な進路を辿ってるけど、魔力波を追うより、ネイルズ地方に直接行ったほうが良いんじゃないでしょうか」
「ミノン。安直な答えを求めるものじゃないよ」と、通信の向こうの職員は言う。「彼女の事なら、君はよく分かっているだろう?」
それを聞いて、ミノンは不機嫌そうに眉尻を上げる。
「彼女の事に関しては、ソアラのほうが詳しいですよ」
「じゃぁ、なんで捜索隊に志願したんだい?」
ミノンは返答に困った。一秒ほどで適当な理由を考え、答える。
「そりゃぁ……。優秀な人材が抹殺されんとしているんですから、協力しますよ」
「アン・セリスティアの何が優秀だと思う?」
「遺伝情報の希少さと、魔力に関する熟知の度合いですかね」
「まぁ、外れてないな。それが手の内にある間は、我々も彼女を丁重に扱わなきゃならない」
その言葉を聞いて、ミノンと呼ばれた、白い服の巫女は大きく息を吸い、大きく溜息を吐いた。
「じゃぁ、手の内を離れたら、どうするんです?」
「凶悪な魔物として抹殺するしかないね」
さらりと告げられた宣告に、水晶を握っているミノンの手が震える。
「彼女は、人間ですよ」と、ミノンは出来るだけ落ち着いた声で言う。
「いいや。彼女の遺伝情報の六十パーセントは、人間ではなんだよ」と、突然通信先の声が変わった。「トマス・ニーベルンゲンだ。久しぶりだね、ミノン・フォーカス」
「教授……」と、囁いてから、ミノンは声を荒げる。「彼女の六十パーセントの何が、何だって言うんですか?」
トマスは笑うような声で息を吐き、年若い弟子の説得を試みる。
「落ち着きたまえ。彼女が『龍族に近い遺伝子を継いでいる』と言う事は、彼女の研究を始めてから、皆に伝えていた事だったね。
本人の協力で分かった事だが、彼女の遺伝子の中で、人間の特徴を受け継いでいるのは四十パーセント未満と言って良い。それは人間としての形を持つために受け継いでいる部分だ。
彼女の体の大部分は、遥か昔に、人間と共存していた『人ならざる者』の遺伝子から作られている。それは、人間が仮に『魔神』と呼んでいる者達だ。
アン・セリスティアは、浄化エネルギーを生み出せる魔神として存在しているんだ。これは非常に……」
トマスが其処まで言いかけると、ミノンは「魔神であれば、殺して良いと?」と、強い声で訊ね、トマスの酔い気味な弁論を遮った。
「そうは言って居ない」と、酔いから覚めた様な声で、トマスは繕う。「彼女が遺伝的に稀有である事は確かだ。手の内から消えようとしているなら、手の内に戻せば良い」
ミノンの、波打つ海のような瞳の表面が、増えた涙で閃いた。
覚悟を決めたような、硬い声で彼女は告げた。
「捜索は続けます。情報が得られ次第、追って連絡します」
「頼んだよ」とだけ答えて、教授は通信を切った。弟子の機嫌を、損ねに損ねた事に気付いているのかいないのか。
光魔球の明かりの中、ミノンは水晶を片づけて、手ごろな木の根の上に座り込んだ。斜め掛けにしていた鞄の中から、携帯食を取り出して齧る。
ミノンは憧れていた。
あの、鼓動を高鳴らせ、体に熱が満ちるような思いをさせる、アン・セリスティアの持つある種の魔力に。
あの力を手に入れたい。
そう願った時もあった。しかし、アンが人間ではないかも知れないと聞かされてから、「人間である自分には手の届かない力」なのだと知って、羨望は嫉妬に転じた。
研究対象としてだが、神殿でのうのうと暮らしているアンの様子を見つける度に、眉間に皴が寄った。
神殿の運営している慈善事業に協力する時も、知らず知らずに表情や態度が強張る。
巫女の仲間から、「怒ってるの?」と聞かれたこともあった。
「疲れてるの」と答える言葉は、だいぶ乾いていた。
誰彼構わず苛立ちをぶつけないよう、冷静を保つように心がけた。
アンに対しては、表面上は寄らず離れずを保った。
近づきすぎれば、ミノンは彼女の神聖を穢してしまうだろう。刃によって切り付けるのか、毒によって爛れさせるのか、方法は分からない。
確実に、彼女が彼女の美しさを保てなくするための、何らかの方法を使ってしまいそうだった。
それでも、完璧に離れてしまうのは、心が許さない。彼女の側にいて、あの力を感じていたい。その思いは変わらないのだから。
ある日、彼等は普通の神官達に混じって、通りすがりのように現れた。白い神官の衣を纏った、黒い髪の男と、赤毛の女。
「アン・セリスティアと、出会わずに済んだ未来があったとしたら?」
そう言って、彼等はミノンに「唯の巫女として誠心誠意に働いていた、無垢なままのミノン」の姿を見せた。
嫉妬に顔を歪める事も、熱情を持ってあの力を求める事も無かった、唯の巫女としてのミノンの姿だった。
「今の貴女は、陰惨な顔をしているわ」と、白い装束の赤毛の女性が言う。「今にも、アン・セリスティアを『食べてしまいたそう』にしている」
そう言われて、ミノンは咄嗟に片頬に手を当てた。自分の心の底の醜さを、見られた気がした。
力を欲する者が、他者の力を望む時、それは原始的な欲求として、食欲として表れる……そう、囁くように言い聞かせられ、自分はそのような狂気に染まっているのかと恐れを抱いた。
その時に現れた、知らない二人は、顔を覆ってしゃがみこんだミノンを放ったまま、何処かに消えてしまった。
食べてしまいたい。そうだ、食べてしまいたい。
木の幹に寄り掛かって眠りながら、ミノンは思った。
唯の肉の塊にしてしまっては駄目だ。彼女の持つあの魔力ごと、私の身の内に取り込んで、消化してしまえば……きっと、彼女と同じ魔力を得られるだろう。
それは、ずっと前にも思ったことのようだった。
月の燈る暗闇の中に、あの時の、黒髪の男と赤毛の女が現れる。
彼等は瞼を閉じたままのミノンの側に歩み寄ってくると、彼女の肩を抱擁し、手を取って立ち上がらせた。
「もう、自分を否定しなくても良いの」と、赤毛の女が、良い母親のように言う。「貴女の思うようにしなさい。貴女のために」
その言葉を聞いて、ミノンは再び目を覚ました。
多大なる空腹と、狂気を持った、祈り人として。




