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ストリングトーンの虹へ向けて  作者: 夜霧ランプ
エピソード集
39/433

ワルター氏の憂鬱な午後4

 翌日、ワルターは休暇を取った。

 理由としては、風邪を引いたので医者にかかると言っておいた。実際にかかったのは心の風邪である。

 連絡のために、どうにかこうにか遠距離通信を行なってから、それだけで全力を使ったかのように、ベッドに伏す。

 躁状態まで伝播してこなくてよかったと、鬱々とした気分で思った。

 ペットの若猫が、起きない主人を見上げて、ミャーと鳴く。腹が減っているらしい。

 そうだ、僕にはチーニャが居るんだ。ぐったりしてる場合じゃない。

 そう意を決し、何とか起き上がると、いつも通りにドライフードの量を測ってから餌のトレーに入れてあげた。

 何も食べないと本当に体を壊しそうだったので、手を洗ってからパンとジャムを用意した。

 パンにペタペタとジャムを伸ばしながら、何となくバターナイフを見て、ペロッとなめてみた。

 甘い物がとても美味しい。ジャムの瓶を掴んで、バターナイフでジャムを抉り出し、口に運んだ。頭の奥が痺れるように美味い。

 一枚のジャム付きパンと、一瓶のジャムを食べつくし、空っぽになった瓶はバターナイフを突っ込んだ状態でキッチン台の上に置いておいた。それから、またベッドに横たわる。

 普段の自分から考えたら、物凄く奇妙な行動を取ってる気がする。だが、その朝はずっとそんな様子だった。


 ワルターが予想した通り、ムニアは憑依体質を持っていた。

 彼女に憑依してワルターに訳の分からない「アプローチ」をしてきていたのは、両極性感情障害――躁鬱病――を持つ霊体だった。

 霊体は、ワルターを手に入れようとしていた。どのように手に入れるのかと言ったら、霊体同士を融合させて、同じ器の中で共同生活をしようと「望んでいた」のだ。

 囁き声でそう唱えて来る憑依状態のムニアから、ワルターは物理的に距離を取った。

「逃げないで」と言って、ムニアは腕を伸ばしてくる。

 ワルターはその腕に捕まらない位置で、ムニアに向けて片手をかざした。

 手の平から魔力波を放ち、霊体に対して魔力を接触させて、データの収集と分析を行なった。

 その時に霊体の状態が分かったのだが、同時に「鬱症状」が伝播してきた。

 ムニアの頭の上のほうに、朧に「髪がおどろと崩れた女」の顔が浮かび上がる。

 髪の崩れた女は、「逃げないでぇええええ!」と叫びながら、何処までも伸びる手でワルターをつかもうとする。

 目の前が暗くなるような感覚を覚えながら、ワルターは浄化の術を放った。


 エネルギー同士のぶつかる稲妻のような音が響き、オフィス内に光が走る。

 ワルターとムニアの体は部屋の両端まで吹き飛んだ。壁に頭や背や肩をぶつけ、痛い目を見てしばらく動けなくなった。

 ぶつけた肩と背の痛みを堪えて、ワルターは体を起こし、霊体が消えている事に安堵した。眼鏡が何処かに飛んでしまって周りがぼやけて見えるが、慌てなくても物の朧な輪郭は分かる。

「ムニア……。ムニア・オーダー。大丈夫ですか?」と、部屋の反対側の壁に頭をぶつけてダウンしているムニアの状態を確認した。

 後ろ頭をまともに壁にぶつけたようだ。出血はないが、早く医者に診せたほうが良いかもしれない。

 足音がして、誰かがオフィスに駆け込んでくる。

「何の音だ? 何があった?」と、ワルターの知り合いの局員が、声をかけてきた。

 彼は肩を押えているワルターと、ダウンしているムニアを交互に見る。

「彼女……ムニアが、悪質な霊体に憑依されてた。削除したけど、エネルギー流に押し負けて……」と、説明しながら肩を傷めているほうの腕を持ち上げようとして、ワルターは痛みに顔を歪める。

「ちょっと待ってろ。『救急箱』持ってくる」と言って、駆け付けてくれた局員は、衛生管理室に道具を取りに行った。


 適切な応急手当てにより、ワルターの打撲の痛みは消え、関節も正常に動くようになった。ムニアの方にも手当てをしたが、頭を打っているので、念のために搬送隊を呼んだ。

 搬送隊が来た時、ワルターはムニアが憑依体質を持っている事を告げ、それを封じるために継続的な「祓い」をかける治療を頼んだ。

 制御できない憑依体質は、本人にとっても邪魔な能力でしかない。

 そうムニアも納得してくれたら良いのだがと、寝転がりながらワルターは思い、半日眠っても邪気が晴れて居なかったら、専門医の所に行こうと覚悟を決めた。


 結局、眠って居ても邪気が晴れることは無く、ワルターは心霊内科を受診した。

 仕事中に霊体と遭遇して、邪気に汚染されてしまった件を説明すると、医師は「職業欄は会社員と書いてありますが、特殊なお仕事をされているのですか?」と聞いてきた。

「はい。ウルフアイ清掃局で働いております」と、ワルターは答えた。「殻や結界を起動しないまま、霊体の分析を行なってしまいまして」

「ああ、そうなんですね」と言って、医師は防御の術を備えた手袋越しに、ワルターの額に触れた。「少し、ショックがありますよ」と言って、力を送ってくる。

 ビクッと体が跳ねるようなショックが起こり、ワルターの体中から光の蒸気のようなものが湧き上がる。邪気が分解されたようだ。

「お仕事の時も、今後は気を付けて下さい。あまり何度も侵食されると、抵抗力が落ちてしまいますから」

 そうアドバイスをもらって、窓口で受診料と処置代を支払い、ワルターは家に戻った。


 重苦しかった心地が消えて、ワルターは飼い猫のためのドライフードとマタタビと、自分のためのチョコレートケーキを買って家に帰った。

 飼い猫はいつも通りに主人を迎えたが、その視線はギラギラしていて、主人の持っている紙袋の中に在る物を、待ちきれないと言う様子で見つめている。

 その表情が、ムニアの「ギラギラした視線」と重なり、ワルターは一瞬息が止まった。

 ムニアは「もう一人の私」……つまり憑依した霊体が、ワルターを狙っていたと語っていたが、それはどこまで本当なのだろうか。

 ムニア本人も、もしかしたら、「もう一人のムニア」の起こすであろう顛末に、期待していたのだろうか。そう心の中で言語化すると、ちょっと落ち着いた。

 そうなのであったとしても、ムニアが憑依体質を封じる治療を受けている限り、ワルターに危害を加える事はないだろう。

「チーニャ。社会人って、大変なんだぞ?」と言って、猫の喉を掻くと、愛猫は「ミャー!」と元気よく鳴いた。

 そんな事よりマタタビを寄越せ、と言う所だろうか。


 三十分間マタタビを堪能した猫は、眠る用意をした飼い主の枕元に行き、丸くなった。

 猫にとって、相手の顔の近くで眠ると言うのは、「あなたを信用していますよ」の意味だそうだ。

「あんまり油断すると、食べられちゃうぞー」と、ベッドに横になる前に声をかけると、愛猫は意味が分からないと言う風な顔をして、居心地の良い姿勢を取る。

 ワルターはパチンと明かりを消し、横になった。

 しばらく寝付けなかったが、チーニャのゴロゴロ言っている寝息を聞いているうちに、ワルターは夢の中に引きこまれて行った。

 暖かい春の野の中、チーニャと一緒に綺麗な草原で昼寝をする夢だった。何も悩みの無い世界は、とても心地好かった。

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