カインの憂鬱な午後 3
思考の間に行ってみると、ジークの姿はすぐに分かった。その時、彼はカインと一緒にソファに座って、何やら話し込んでいるようだった。
もしかしたら、と思ってサブターナは二人に近づくと、カインと目を合わせるように屈みこんで、「アベルに、意地悪されたの?」と聞いた。
「イブ……」と、カインは。しょんぼりした声を溢す。「意地悪って言うか……。私を近づけたくないみたいなの」
其処から、カインがアベルの部屋にあったぬいぐるみで、アベルをあやそうとしたら、不機嫌な顔をした赤子はぬいぐるみを奪い取り、「こっ、アベル、の!」と、怒鳴ったと言う経緯が語られた。
そして、アベルは近くにあった積み木を掴み、カインの疑似形態に向けて幾つも力いっぱい投げつけてきた。最も憎いものを撃退しようとでもしているように。
「私の考えすぎなら良いんだけど……。私が何をしても、アベルの機嫌が直らないの」と、カインは自分の悩みを締めくくった。
「うん……」と答えるサブターナは、話を聞いてるうちに自分の方の悩みを忘れてしまった。
そして、カインに説明する。
「アベルは、所有欲が出て来てるのかも知れない。小さな子供によくある事なんだって。自分に与えられたものを、他の子に触られるのを嫌がったり、取り返そうとしたりするんだって」
「イブにも、そんなことするの?」と、カインは聞いてきた。
「私には……」と言いかけ、サブターナは自分の悩みを思い出して、げんなりした。「酷い目には、さっき遭ったけど、物を投げられたりはしなかった」
「酷い目?」と、ジークとカインが同時に聞いてくる。
ああ、これは話さなきゃダメだな……と覚悟して、サブターナはアベルの部屋での、事と次第を話した。
「人間の赤ちゃんは、お母さんの胸を弄ったりするの?」と、カインが聞く。
「正常な赤ん坊なら、本能的に触ったりはするらしい」
そうジークが、お兄さんモードで答える。
「生まれたばかりの、哺乳類の赤ん坊にとっては、母親の胸は食べ物を提供する装置だからな。それを弄る事で、食べ物と言う気分の好い物が得られるって、覚えているんだったら、弄り回しもする。
だけど、アベルは、どっちかって言うと、本能的なものは見せなかったんだろ?」
「うん。最初は、食べ物の飲み込み方も分かんなかった」と、サブターナ。
「もしもの話だが、母親の胸を見て、『食べ物が得られる』と思ったわけではない、とすると……」と言って、ジークは冷笑に近い、苦笑いを浮かべる。「唯のマザコンの、エロガキなのかもな」
サブターナは硬直し、カインは疑問を聞く。「マザコンのエロガキって何?」
其処から、ジークお兄さんはボソボソ声で、あまり良い意味ではない言葉をカインに説明した。
間近にいるので、ボソボソ声でも内容の聞こえてしまったサブターナは、周りにばれないように怖気を振るっていた。
アベルが、自分の部屋の外に脱走するようになった。
這って逃げ出す事が多いので、彼の両手は悉く床の埃や砂を吸着し、たまたま通りかかって、彼を保護した魔神達の手や体に、黴菌をプレゼントしていた。
そして、汚れている自分の指を舐めてから、口の中の菌の類もプレゼントしていた。
基本的には「赤子の仕草」であるが、アベルは何処か「そう言う事をすると大人は困るのだ」と言う事を、分かっていてやっている節がある。
脱走した時の彼は何時も、悪そうな笑顔でニタニタしているのだ。
彼の心情を、文節正しく記すとするならこうだ。
僕がこんな事をしても、お前達は怒れないだろう? 僕はお前達を酔心させて、お前達の愛情ってものを、独占してるんだから。さぁ、大冒険の後は、良い子良い子をして部屋まで連れて行くんだ。僕は疲れているんだからな。
そんな事を言葉として発さない彼の習性は、「男の子らしく」活発な赤子なのだろうと、善意的に解釈されていた。
やがて、アベルは、這った状態で階段を上ったり下りたりする方法も考えだした。上る時は至って普通に段を這って行く。そして、下りる時は頭を上の方にして、後退るように後方に足を伸ばす。
頭は必ず守らなければならない、と言う事が分かっているのは、彼に備わった自己防衛力か、もしくは永劫の者達が仕掛けておいたシステムなのかは、判断しかねる。
本人は唯ひたすらに、「楽しい」に突き動かされているだけなのだ。
部屋からアベルが居なくなったと気づいたプレム達を撒くためには、いち早く階段を上って姿をくらます事であると学習していた。
しかし、その策士にも、唯一敵わない天敵がいる。妹のカインだ。
彼女は、何故か「アベルが何処に居るのか」を、瞬く間に見つけ出す。
ある程度育った人間の子供が、赤子の喋っている事を理解できるように、カインはアベルがどの方向に逃げて、何処に居るのかを瞬時に理解できるのだ。
アベルは、育児係や、捜索に協力していた他の魔神に捕まった後、カインが頭を撫でられたり「ありがとう」と言われているのを見聞きして、不愉快そうな表情をしていた。
ある日、アベルは扉が少し開いていた「王の間」に入り込んでしまった。鋼のマスクをして眠っている、巨大な体を持つノスラウ王と、その身の回りの世話をしている、巨人族の女性を見つけた。
分厚い布で作られたワンピースを着ている巨人族の女性は、香水を染み込ませた温かいタオルで王の顔や手腕を拭き、鋼のマスクから飛び出ている白いひげをハサミで整え、伸びた髪を櫛げずっている。
その作業が終わってから、女性は赤子に気づいた。
「アベル?」と、女性は名を呼んでくる。
名前を知っていると言う事は、この女性も、自分に従うはずだとアベルは認識した。
「こっこ!」と言って、アベルは後足で立ち、女性の方に、黴菌だらけの両手を伸ばす。
「抱っこは出来ないわ」と、女性は意外な事に、アベルの要求に応じない。香炉の中に、火をつけて燃やすタイプのお香を用意し、マッチで燈すと、灰が散らないように蓋をした。
女性が部屋を出て行こうとしたので、アベルはもう一度要求した。
「こっこ! すぐ!」と。
「ごめんなさいね。他の人を探して」と、女性は答えて、王の間を後にした。
その後、アベルは「カインのせい」で見つかり、大至急保護された。まだ強い魔力を持たない子供だと言え、ノスラウ王が食欲の対象にしないかは、分からなかったからだ。
アベルは、自分の言う事を聞かなかった巨人族の女性に、不満を持った。
どうにかして、あの女に自分を抱っこさせて、あの巨大な体を持つ奴より上の方に持ち上げてほしい。そうすれば、アベルはあの老人を見下ろせる。そんな気分の良い事を、なぜあの女はさせないのだ。
そう言った不服を抱えていたのだ。
アベルにとっては、自分は誰より優先されるはずの王様なのだ。なのに、自分で何もしなくても面倒を看てもらえている老人がいる。これはとても由々しき事だ。
いつか自分は、あの老人を平伏させなければならない。それから、あの巨人族の女性から面倒を看てもらう権利を、取り戻すのだ。
そのような、元々持っていない権利を主張すると言う、子供にありがちな思考の中で、彼の傲慢はどんどん増長して行った。




