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ストリングトーンの虹へ向けて  作者: 夜霧ランプ
エピソード集9
383/433

カインの憂鬱な午後 2

 ゼンマイで急激に走るタイプのミニカーで、アベルは遊んでいる。それを車と言うものであると認識しているかは、分からないが。後ろ側に引っ張ると、すごい勢いで前に走り出すのが面白いらしい。 

 育児係の魔神のビカスは、赤子が手足で這いまわる床を、消毒液を混ぜた水モップで拭きながら、赤子の様子を見守っていた。

 ビカスの顔は、目元と鼻までを黒い狐のような面に覆われており、口元しか表情が読めない。特に笑みも作っていないが、不機嫌でもなさそうだ。

 部屋のほとんど全面を拭き終わり、水モップとバケツを片づける間、一緒にアベルの見守りをしていた若い魔神のプレムに、しばらく赤子を任せた。


 道具を片づけてからアベルの部屋に戻る途中、プレムの悲鳴を上げるような声が聞こえて来た。

 ビカスが急いで――それでも走らないように――部屋に戻ると、プレムが、這って逃げ回る赤子を追いかけ、服の襟をつかんで引っ立てた所だった。

「やめろ! 窒息したらどうする!」と、ビカスは一瞬声を荒げた。

「いや、その窒息をさせないように、捕まえてんの!」と反論して、豹のような頭と人間に似た手を持ったプレムは、頬を膨らませているアベルの口の中に、無理矢理指を入れ、涎で汚れている玩具を取り出した。

「なんだそれ」と、ビカスは聞く。

「ミニカーだよ。さっき、口に入れたんだ」と、プレムは安心したように息を吐いてから、樹脂製のミニカーを確認し、「あ。齧った痕がある」と言う。

 そこで、ビカスは気づいた。

 アベルに、「気に入ったものを口に入れて咀嚼する」と言う、人間の赤子らしい本能が、目覚めつつあるのではないかと。


 アベルの成長について、ビカスは疑問を持っている。

 まだ哺乳瓶でミルクを与えられていた頃は、吸い込んで飲むと言う行動が出来ていた。しかし、ある程度の成長を得て、言葉を理解するようになったら、途端に「食物を飲み込む」と言う本能が消えてしまった。

 もしかしたら、固形物を食物と見なさなかったのかも知れないが、他の魔神が手本を見せないと、物を口に入れる事も、それを咀嚼して飲み込むと言う動作も出来なくなった。

 アベルの中では、成長に伴う何かが起こっているらしい。そしてそれは、決して良い要因ではないようだ。


 カインの疑似形態(シャドウ)が、アベルの下を訪れた。

「こんにちは。アベル」と、滑らかな声で挨拶をする。

 ビカス達は、カインに対して非常に気を配る。創世神話のように、カインが何かの原因で癇癪を起し、アベルに危害を加えないように。

「カイン。こっちに座って。ジュースはオレンジで良い?」と、プレムは壁際の、低いテーブルの横に椅子を用意し、声をかける。

「ありがとう」と、カインはスカートがめくれないようにしながら、椅子に座った。

 普段はアベルが使っている、子供用のグラスの一つを棚から取り出し、プレムは瓶に入れて保存してあったフレッシュジュースを、、そのグラスに注ぐ。

 ビカスはグラスが置かれるはずのテーブルを消毒したクロスで拭き、おまけに木製のコースターを用意した。

 まるでお嬢様のように扱われるカインを見て、アベルはしばらく床に座って黙っていたが、カインがテーブルの上に置かれたグラスに手を伸ばそうとすると、「めっ!」と声を上げ、後足で立ってカインのほうに近づいて来た。

「コッ。コッ。アベル、の!」と言ってから、オレンジジュースのグラスを奪い、飲み干した。

 空っぽになったグラスを、アベルは叩きつけるようにカインの膝の上に投げた。グラスはカインの膝でバウンドして、床に落ちる。幸い、樹脂製なので割れることはなかった。

 カインは、こんな時にはどう対処すれば良いか分からず、呆然としている。

「ダメだろ、アベル」と、プレムは床に落ちたグラスを拾って、言い聞かせた。「これはカインのために用意した物なんだから」

「コッ。アベル、の。こっ、カイン、で、ない」と、アベルは言い捨て、玩具に囲まれた床に座りなおして、不遜な笑みを浮かべる。

 言葉の意味はさっぱり分からないが、「コッ」として表して居る物がアベルの所持品であり、「こっ」として表現して居る物が、カインの所有物では無いと言いたい……のだろう。


 ポッドからの「出産」より一年を経て、二歳ほどの体つきを得たアベルの態度は、段々と傲慢に成って行った。誰に教えてもらわなくても、生活の中の大体の行動がとれるようになり、自尊心と言うものが出来て来たようだと察された。

 だが、サブターナがアベルの様子を見に来ると、アベルは「媚びる相手は分かっている」とでも言いたげに、より赤子のような行動をとる。

 ついさっきまで平気で歩いていたのに、母親の存在を確認すると、膝を折って床に座り込むのだ。

「アベル。こっちにおいで」と言われても、床に座って身動きを取らず、顔はニヤニヤしている。

「最近、こんな調子なんだ」と、プレムがサブターナに教える。「抱き上げて運ばないと、トイレにも行かないし、食事の席にもつかない。それで、おしめ生活が再発してる」

「足を動かすのが嫌なのかな?」と、サブターナは疑問を問う。

「いや、唯単に甘えているだけだ」と、ビカスが説明する。「自分は赤ん坊として甘えていたいって言う意思の、表れだろうな。実際、食事を用意して放っておくと、腹が減ったら自分で食べに行く」

 サブターナはそう聞いて、メモ帳をめくった。其処には、人間の赤子がどんな風に育って行くかの過程が書かれている。

「教えられたことに反発したい……って言うのは、一時反抗期とか、いやいや期って言われてるみたい。その期間が来たのかな」

「反抗期ではないかもな」と、ビカスが、床に寝そべっているアベルを抱き上げるが、アベルは「いやだ」と言う意思は見せない。むしろ、ビカスの腕に体を預けて、自分で背を伸ばそうともしない。

 そのまま、ビカスがサブターナの近くに赤子を持ってくると、彼は母親に手を伸ばして、「ねむ。ねむ。むにぃ」と、赤ちゃん言葉を発する。

「眠たいって言ってるの?」と、サブターナは聞く。アベルは頷いた。そして、「むにぃ。むにぃ」と繰り返す。

 サブターナは、何を言ってるのか分からなくて、魔神の二人の顔を見た。

「抱っこしろって意味だよ」と、プレムが謎々を解いてくれた。


 サブターナは、眉間に皴を寄せ、非常に不快な気分でアベルの部屋から撤退した。

 何せ、あの甘ったれは、サブターナが抱っこしてあげると、唾液のついた手で容赦なく彼女の服を汚し、僅かなふくらみを見せている十四歳の女の子の胸を、玩具のようにムニムニと弄りまわしたのだ。

 カーラは「アベルには本能が無いのかも」と言っていたが、サブターナにとっては嫌な意味での本能を、獲得しつつあるらしい。

 サブターナは、こんな事を誰に相談しようと悩んだ。自分の子供が、母親の胸を弄りまわすのはどうしたらやめさせられるのか、と言う少し変な悩みだからだ。

 生憎、その時「城」にはカーラは居なかった。

 魔神であるアナンに聞いても、人間の子供の事は分からないだろう。

 そうなると、当ては一件だ。

 その人物が、真面目に話を聞いてくれることを期待しながら、サブターナは思考の間に向かった。

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