30.とても愛しい人
朝。聞きなれた目覚まし時計の音ではなく、遠くから薫って来る香ばしいパンの香りで目を覚ます。
パンにバターを塗って、フライパンで焼いてる匂いだ。
そう思いながら、ガルムは瞼を開け、ベッドの上に体を起こした。
それは、何時も基地で横たわっている、固い二段ベッドではない。まだ真新しく、これからも柔らかく背を支えてくれそうな、安定したスプリングベッドだ。
そうだ。家が出来上がって、休暇の日は定期的に帰って来る事になったんだっけ。
ガルムはそう思って上掛けを避け、ベッドから脚を下ろし、背を伸ばした。
「ガルムくーん!」と、遠くから姉の声が聞こえる。「起きてるー?!」と。
料理をし始める前に起こしに来る、と言う手間は考えていないらしい。
大声で返事をするのも変なので、ガルムはパジャマ姿のまま自室を出て、キッチンのほうに向かった。
エプロンをしている姉が、コンロにかけたフライパンの前でフライ返しを操っている。
その背を見つけて、ちょっと顔がほころんだ。
「今起きた」と、その背に声をかける。
「ああ。今、出来上がるから」と、姉は言いながら、コンロを消してフライパンを手に、カウンターテーブルの近くに行く。其処には、四つの皿にグリルチーズサンドが、一セットずつ収まっていた。
神殿から引っ越してきてから、姉は遠くの田舎町のギルドに登録した。浄化の術が使える治療師としての仕事をしており、平日はほとんど毎日箒で飛び回っている。
組合と聞いて、ガルムは大分古いシステムだなと思ったが、千年前から時代に合わせて続いて来たその組織は、少し田舎に行けば今でも活きていた。
ガルムの様子は相変わらずだ。今もハウンドエッジ基地で働いている。後輩のユリアン……通称ユーリと一緒に、度々色んな災害現場や紛争地帯に派遣される事が増えた。
現場の様子から、数ヶ月は休暇が取れない時もあるが、帰ってくれば姉達は笑顔で迎えてくれる。
十二歳の頃が、戻ってきたような気がしていた。
十階のマンションの外に見える公園は、秋色の木の葉で埋もれている。
朱色を含んだ赤は、ガルムの一番好きな色だ。十二歳の頃によく見ていた、姉の瞳の色であり、やがてそれを受け継ぐことになった自分の、大切な……何かを、例えば、生きると言う事を可能にする、不思議な力の色だ。
青のカラーコンタクトレンズを入れる前に、ガルムは必ず自分の持つ朱緋眼の色を確認する。
もう、何年と続けている、毎日の日課だった。
そこまでのイメージが、次々に頭の中でフラッシュする。
「ガルムさん! 伏せて!」と、背後からユーリの声が聞こえた。反射的に身を伏せると、ユーリの術で周りに霊術の結界が張られた。
遥かに離れた場所に着弾した小型の「弾丸」の余波が、神気体を包んだ結界に襲い掛かる。それは、黒い雲泥のように高濃度の邪気だった。
ガルムはアンナイトの機能でパワーフィールドを展開し、ユーリに結界を解くよう片羽でサインを送る。
ユーリは建物の陰に集めた人々を、霊術の結界で匿い、彼等の体に発症した邪気侵食による病状を緩和する術を、施している所だった。
生身の本人が来ているわけではないので、完全に治療するには、霊力も神気も足りない。
何にせよ、患者の数が多すぎる。
ガルムの神気体は、邪気汚染地帯と化している町に隠れている避難民の中から、罹患した者を選び出して、ユーリの下に運んでいる所だった。
神気体の「浄化」の術を使うには、的が散らばり過ぎている。浄化の術と言うのは、肉眼であれ術的視界であれ、目で見える範囲にしか影響を及ぼせない。
まずは患者を集めて、ユーリが症状を軽くし、最終的にはガルムが一気に「浄化」の術をかけると言う手はずで進んでいた。
ガルムとユーリは災害復旧の仕事と聞いていたが、実際に着いてみると、現場は何処かからの爆撃に遭っていたのだ。
災害と言えば災害であるが……たった二人で、この状況をどうしろと? と思ったが、アンナイトの受け取った指令に基づいて、住民の安全を守り、邪気に脅かされていない土地への避難誘導をする事に成っている。
増幅エネルギーに変換し損ねた邪気を帯びて、炸裂する「弾丸」にも手を焼いていた。
それが町に一撃を加える度に、「ついさっき綺麗にしたばかりの場所」まで、再び高濃度の邪気が包むようになる。
故に、土地を守るより住民を守る方を優先したわけだ。
爆撃の期間によっては、数ヶ月はかかる仕事に成りそうだ、と、ガルムは目星をつけた。
針葉樹の森の中。箒を細かく操りながら飛翔するアンは、息を切らし、追っ手を撒いていた。
障害物の中に潜んで飛翔しないと、撃ち落される危険があるからだ。
術師の気配は、確実にこちらに近づいてきている。アンは、箒で浮いたまま、一度針葉樹の枝の中に身を隠し、呼吸を整えた。
もう、十四時間は無断外出をしている。神殿の方には異常が伝わっているかも知れない。出来れば、誰か……手伝いが欲しいな、と、アンは思った。
ラムから受け取ったアメジストの標本は、布に包んで服の腹に押し込んである。
ジークからの情報によると、今、アンを追っているのは、仮名で「祈り人」と呼ばれる術師である。
つい数時間前、アンは、遥か頭上を飛んでいたコンドルが、無数の針のような影に追い立てられ、体中に邪気を植え込まれて、異形の者に成りながら落下して行くのを見た。
飛翔高度を上げたりすれば、あのコンドルと同じ目に遭うだろう。
出来れば、疲労困憊の状態に成る前に、この標本を安全な……ローズマリーの居る場所まで届けられれば、丸一日ぶりの睡眠が取れるかもしれない。
とにかく今は、居所を突き止められないように、飛ぶしかない。
そう覚悟を決め、息を整え終わった彼女は、再び針葉樹の森を飛翔した。
ガルムが持って来てくれていた新しいノートに、レーネは言葉を綴る。
「アルア・ガブリエル。とても恐ろしい人。私は幼い頃、その恐ろしさを『厳しさ』だと思って居た。失敗を許さず、私が完璧な淑女に成れるように、厳しさを見せているのだと。
だけど、私は新しい世界を知って、彼女の与えてくれていた物が、信じられなくなった。その途端、全てが恐ろしくなった。
アルア・ガブリエルは、きっと、アルア・ガルムを殺めようとしている。その事だけは強く分かる。私の見るもの、聞くものが、ガブリエルに届いていたのだとしたら、その逆だってある。私は、ガブリエルの心が分かる。
ガブリエルは、まだ迷っている。どうか、決断を下さないで。そんな事をしても、貴女の愛しい者達が戻ってくるわけじゃない。
私が、貴女の子供達の代りに作られた従僕なのだとしても、本当の人間の心を知らないとしても、貴女の子供達は、『別の未来』なんて望んでいないって分かる。
苦しみを耐えて、お別れを済ませて、神様の所に逝って、今は天使にだってなってるのに。どうして……どうして、苦しいこの世界に、もう一度存在しようなんて、思うかしら。
アルア。アルア。とても恐ろしく、とても愛しい人」
そう綴って、ペンを置いた。




