26.さぁて困ってしまったねぇ
カツカツと杖の音を立てながら、その人物は海辺の町を歩く。人気のないオープンカフェを見つけて、お茶と茶菓子を注文した。
その背はピンと伸びているが、顔つきは老人のようだった。
彼が茶を待っている間に、滲みだすように、黄色い体毛を持った獣人の少年が現れた。
「ガブリエル」と、少年は苦々し気に呼びかける。「想像以上に変な人間だった」
「何処がどの様に?」と、呼びかけたられた者が聞くと、少年は「脅迫とか前置きとか取引とか、全然聞かないんだよ。害のある奴は即始末するって言う姿勢と言うか」と苦言を呈す。
「元・清掃員らしいからね。戦い方は『実用的』なんだろう」
そう言って、ガブリエルと言う老人は椅子の背もたれに背を預ける。
「人間は、害虫を駆除するのに理由を持たないからね」
「僕は害虫か」と、獣人の少年はぼやいてから、人目がある事を気にして指をはじいた。
途端に、黄色い体毛の覆われていた狐の姿から、より人間に近い形に変化する。ズボンと靴しか身につけていなかった衣服も補われ、ちゃんとシャツを着た。
ガブリエルはその姿を見て言う。
「ラビッジ。頭の上の耳が残っているよ」
「これは引っ込められないな」と、少年は言う。「顔の横の耳は飾りだからね」
「ならば、見えないようにしておきなさい」
「分かってる」
そうやり取りをして、少年は頭の上の耳に魔力を込めた人差し指を触れた。途端に、髪を分けて生えていた狐の耳が消える。
「さぁて、困ってしまったねぇ」と、ガブリエルは言う。「本当なら、人質の解放と弟の身柄の交換条件だったのだが」
「それもあんまり応じそうにないな。一番愛しい者は弟らしいから」と、ラビッジ。
「ふむ」と唸り、ガブリエルは遠くを見るように黒い眼を瞬かせる。
其処に、ウエイトレスが現れた。「ミントティーとガナッシュケーキです」
ラビッジはガブリエルの向かいに座り、「僕も同じものを」と注文した。
ラビッジもまた、双神の指示に従って行動している者の一人である。
彼に提供されるはずの未来は、「狩りに遭った時に失われた村の獣人達が『助かっていた』未来」だ。
焼き払われた村の中で、狩人に捕まった獣人の子供達は、手枷をされ、首に縄をつけられて、連行された。一部の子供は見世物小屋に、また一部の子供は屠殺場に、残った子供は地方領主の城への献上品にされた。
献上品にされた子供達は、皆、魔力を持っていた。その子供のうちの一人が、ラビッジである。
彼は見世物芸として、念話能力や空間干渉能力等を身につけ、傀儡人形の作り方を覚えた。
領主に従う意思があると言う事を充分に印象付け、領地に備えられている結界の外に逃げる機会をうかがった。
やがてそれを叶えたラビッジが、放浪の旅をしていた頃、双神が接触してきた。
ラビッジにとっては「村が壊されない未来」は「帰る場所」を取り戻す事であり、彼の心に迷いはない。
しかし、その方向に未来が進んだ場合、時間軸にどのような変化が起こるのかは予測できない。
村の外と言う世界で生きていなければ、空間干渉の能力も傀儡人形の能力も覚えなかっただろうし、その力を使って過去を変えたと言う出来事すらも存在しなくなるかもしれない。
パラドクスが起こる可能性は十分にあるが、双神は言っていた。
「君が選択した未来は、私達の居る『現時点』とは別の空間に作られるだろう。ラビッジ。君の空間干渉の力を使えば、簡単に行き来できる場所に。それなら、望んだ分岐と、それを可能にした分岐に、錯誤は起こらないよ」
その言葉の何処までが本当かは、ラビッジの考える所ではない。
茶と茶菓子が提供され、ラビッジは礼を言って、それ等を食べ始めた。ウエイトレスの手によって、スッと紙のメモのような物が差し出される。
料金を書いた伝票だろうかと思って、ラビッジがそれを手に取ると、其処には古い綴りの読めない文字が書かれていた。
「ガブリエル。これ、あんたの使ってる文字だろ?」と言って、ラビッジは伝票らしきものをガブリエルに見せる。
ガブリエルは大きく目を開け、メモを受け取った。
「お前を知っているぞ」と、其処には書かれている。
それを読むと同時に、ガブリエルの両眼に向かって、どす黒いエネルギー波が放たれた。
苦痛の呻きを上げ、ガブリエルは呪符を手放す。そのまま椅子から身をそらし、どさりと石造りの地面に倒れた。
「どうした?!」と言って、ラビッジはガブリエルを助け起こす。
魔力が解除されたガブリエルの姿は、長い黒髪を持った朱緋色の瞳の若い女性に代わっていた。
変化が解けた。
そう察して、ラビッジは手の平に魔力を集め、ガブリエルの左手に触れようとする。
「待て。そんな場合じゃない」と、ガブリエルは落ち着いた声で言う。
見渡す限りの、町中の人間が、ガブリエルとラビッジを見ている。オープンカフェの店員達も、建物の中に居る者も、窓や出入り口から敵意の視線を送って来ていた。
「灯台の下は明るかったようだな」と言って、ガブリエルはゆっくりと身を起こした。
見渡す限りの様子を見てから、「さぁて、困ってしまったねぇ」と呟く。
カフェの店主が、胸ポケットから、ガブリエルの考案した文字で書かれている呪符を取り出す。
それが構えられる前に、ラビッジはガブリエルの腕を掴み、別の空間に飛んだ。
ジークの本体はメリュジーヌの屋敷で、女主人が必要とするデータを集めて報告していた。
「敵の数は今の所、七人。どいつもこいつも『双神』の話に乗った連中だ。一人は今日、意識の町でアンと接触したらしい。人間そっくりの人形を操る、空間干渉能力を持った獣人だった。アンが単独で追い払ったそうだが、意識の町の中でも安心できないとなると……。アンが寝不足になる可能性はある。
そして、ふてぶてしい事に、その一名を含む二名が、この町に滞在していた。住民に呪符を持たせてたのは正解だったな」
そこまでを聞いて、メリュジーヌは「滞在していた二名の外見は?」と聞いてきた。
「獣人の変化と、黒髪の女だそうだ」
ジークはそう説明してから、空中で両手の指を動かし、視覚ウィンドウを起動した。
其処に、ラビッジとガブリエルの「逃げる直前」の様子が映る。どうやら、町の住人達の視点から拾い出した映像のようだ。
その頃、「エデン」では問題が起こっていた。
術を解いたはずなのに、試験体「カイン」は、爬虫類期の形のまま、次の進化の段階に行かないのだ。
だが、肉や骨は増殖していて、人間に近くならないまま成長して行っている。
サブターナ達はそれを観察窓越しに見ていた。
「これは……もう、破棄するしかないんじゃ……」と、研究者の魔神の一人が弱音を吐いた。
じっくりとポッドの中を覗いていたサブターナは、「待って」と、魔神達に声をかけた。「この子、私達の事、見てる」
「そりゃぁ、目はあるから、見るくらいはするんじゃないか?」と、別の魔神が言うと、サブターナは「よく見て。口が動いてるの。私達が喋ってるのと同じ形で」と言って、幾重にも硝子に遮られたポッドを指差した。




