14.人生の選択
ガルムが、「家を買おうと思ってるんだ」と言う話を持ってきた。アンは「へー」とだけ答えた。
反応が薄いと弟に指摘されたが、アンとしては「ガルム君も家とか結婚とかに、興味が出てきたのかな?」と言う感想を胸に秘めておいたのだ。
そしてそれを、生活の面倒を看てくれる巫女、ソアラに話した。
「良い事じゃないですか。弟さんが自立しようと思ってるって事でしょ?」
「でも、基地に寝泊まりしなくなるって事は、軍人としては仕事を辞めるって事でしょ?」と、アンは反論する。「そうしたら、新しい仕事は何にするんだろうとか、そもそも軍を辞める事を許可してもらえるのかなとか、考えちゃいますよね」
「弟さんが引き止められる理由は?」と、ソアラ。
「なんか、扱うのが複雑な機器の操縦を、一任されているらしいんです」
アンがそう答えると、ソアラはピンときたと言う顔をした。
「もしかしたら、弟さん、貴女が住む家を用意しようとしてるんじゃないですか?」
「え……。え?」とアンは、挙動不審に語尾を上げる。「いや、私こそ、神殿を離れるわけに行かないでしょ?」
「誰が何時そう言いましたか?」と、ソアラは苦笑いしながら返答する。「日常の生体反応の観察だったら、この三年間でデータは十分とれています。何だったら、ちゃんと個別のおうちに住んで、時々髪の毛や爪や血液の採取をさせてもらえれば、後は外の世界で暮らしても、こちら側としては全く構いません」
「でも、研究員の人に、後三年したら結婚と言う選択をしないかと、話を振られたことがあるんですけど」
「それなら、それこそ外の世界に行って、お相手探しをしたり、何だったら自由な恋愛体験をしてもらった方が、私達としても望ましいです」
そう聞いて、アンは「モルモットの繁殖」の事だと思っていた恋愛や結婚と言うものを、自分の選択でせねばならん……と言う追加の責任感に呻いた。
ガルムの「家を買おう計画」は、着々と進んでいる。
明識洛では、大体、古い家を買い取って、内装をリフォームして使う事が多い。外装に手を加える事はほとんどない。
場所は何処にしようとか、基地から離れすぎて居ないほうが良いのだろうかとか、それより神殿に通うのが難しくない場所が良いのだろうかと、任務から帰って来て居室に居る時に、メモを取りつつ考える。
時計は既に二十四時を指している。
「ガルム」と、ベッドの下段からノックスが声をかけてくる。「まだ起きてるの?」と、文句を言うために。
「もうちょっと。二十六時に成ったら眠る」と、ガルムは答える。
「俺、もう眠たいんだけど」と言うノックスは、どうやら部屋の明かりを消してほしいらしい。
「すまん。今、人生の選択に関わる重要な事柄を熟考中なんだ」と、わざわざガルムは説明口調で教えてやった。
「人生の選択ぅ?」と、ノックスは寝ぼけた声で苦情を言う。「そんなの、朝早く起きて考えなさいよ」
「朝は頭が働かないの」と、ガルムは物件情報誌を見ながら、めぼしい家の住所をどんどんメモして行く。
居室の外から、見回りのノックが聞こえた。
「まだ起きてるのか?」と、問われる。
「すいません。二時間後に眠ります」と、ガルムは返事をする。
「朝礼に遅れるなよ」と、見回りは声をかけて何処かに行った。
救い主があっさり退場した事に絶望を覚えながら、ノックスはベッドの上に体を起こした。
寝ぼけ眼で居室のテーブルに来ると、向かいの席に座る。
「それで、人生の何を選択しようとしてんの?」
「姉の住む家」と、ガルムは言う。「休暇に成ったら俺も帰る家」
寝ぼけてはいるが、ノックスも少し嬉しそうな声を出す。「おお。遂に」
「そう。それで、予算と立地と敷地面積を……どうしようかなと」
「何? 戸建てで考えてる?」
「ああ。前の家が戸建てだったから」
「マンションを買うのは選択肢にない?」
「いや……。町の中だったら、マンションもありだと思う。だけど、集合住宅って騒音問題とかあるだろ」
「立地条件を考えるなら、マンションをお勧めする」
「何故?」
「何故なら、アンさんが神殿に通うのに困らないのが一番だからだ。たまにしか帰らない奴は、ロングランな帰路を歩いても平気だろ」
「それもそうだ。だけど、物音についてはどう考えれば良い?」
「床下にコルク屑でも敷け。あれは大分良い防音になるぞ」
「そうか……。コルク屑、防音」
そう呟きながらメモをして、ガルムはそれまでほとんど戸建てしか観ていなかった物件情報誌を、検めた。
その向かい側の席で、ノックスは腕を枕に眠り始めた。
「ベッドで眠れば?」と聞いても、返事がない。
放っておくと言う選択肢もあったが、せっかくアドバイスをくれたので、ベッドまで運んであげると言うサービスをする事にした。
ノックスのほうが身長が高く体格も良いのだが、体重とそれを運ぶ筋力で考えるなら、難しい仕事ではない。
手足を組ませて体全体が丸まった状態にして、椅子からひょいっと腕の中に転がす。
歩いて数歩の二段ベッドに移動させ、下段にゆっくり下ろす。
後は勝手に眠りやすい姿勢を取るだろう。
まだ二十六時には成っていないが、発案が切り替わった所なので、ガルムも休むことにした。
広げたままの物件情報誌を閉じ、メモとペンを回収してロッカーにしまい、二段ベッドの梯子を上った。
レーネは宛がわれた部屋で眠っている間に、彼女の横で眠っていた黒猫が目を覚ましたのに気付いた。
「アイラ?」と声をかけて、背を撫でたが、黒猫はベッドを降りて、窓を塞いでいるカーテンの向こうに飛び移った。
レーネは目を閉じて、アイラの見ている視界を覗く。
遠くで、普通の猫の目に見える範囲よりずっと遠くで、誰かがアイラとレーネを見ている。
ずっと探していた何かだと言う事は分かった。
レーネは両腕で胸を抱き、肩を押さえて、目をぎゅっと閉じた。
アイラの視界が消える。
寒くも無いのに歯の音が合わず、体が小刻みに震えた。
頭の中に、ガルムの顔が思い浮かぶ。
優しく、暖かい力を持った、新しい「アルア」。
私は帰りたくない。
レーネは念じた。
アルア・ガルムは、怒らない、殴らない、律さない。
私は子供のように振舞わせてもらって、誰もそれを咎めない。
この世界は優しい。私が無知なふりをしているからかもしれない。
だけど、あの城の中に満ちていた、冷笑は存在しない。
私は、帰りたくないよ。
そう念じたレーネが、堪えるように閉じて居る瞳から涙を流したのを見て、アイラは自分の主人の隣に寄り添った。




