12.笑顔の理由
ガルムは姉の問いに答えようがなかった。そこで、「そう言うのは秘密にするもんなの」と言ってみた。しかし、姉は「ノックス君の『女神様』の事は知ってるのに?」と、突っ込んで聞いてくる。
「それは、あいつが隠し事の出来ない性格なだけであって、普通の社員はみんな内緒にしてんの」と、誤魔化しておいた。
その実、ガルムは悩んでいる。
数年前。正確には五年ほど前、タイガからのアドバイスで、自分の「姉に対する異常な執着心」については整頓できた。
そして、アヤメの事を異性だと思ってみてみようと言う意識改革を、ずっと心の中で試みている。
毎週通っていた神殿への見舞いの回数を減らしているのも、意識改革の一端である。姉の周りにいると、無条件に心拍数と体温が上がるので、なるべく「近しく接しないように」と頑張っているのである。
ついでに、貸し出し厨房で会う時、ばれないようにアヤメを「じっくり観察してみたり」もしている。
体つきは締まっていて、姉と同じで胸はそんなに出っ張っていない。身長は目測で百六十五センチほどだろうか。聞き手は右。髪は黒く、瞳も黒だ。
だが、アヤメの片目には弱視をカバーし瞳の色を誤魔化すための、術が備わったコンタクトレンズが入っている。
ガルムのつけている「瞳の色を誤魔化すため」だけのレンズとは違い、アヤメのつけているものは、魔力的な力まで抑えることができる。
そんな事を考えながらチラチラ見ていたら、目も合わせてないのに、アヤメから「なんかあった?」と聞かれた。
「あの……。今回のは、美味しく出来たかな、と思って……」と、ガルムが言うと、アヤメはガルムの作った焼き菓子を食いながら、「いつも通りに美味しい」と述べる。
其処に、マダム・オズワルドが割って入ってくる。
「何時も通りじゃないわ、アヤメ・コペル。この、追及されつくした砂糖とバターの配合比率が分からない? 舌触りはあくまでソフト、かつ香りは芳醇。隙の無い濃厚さでありながら、味覚を休める必要はないのよ?」
つまり、飽きが来ない味だと言う事だろう。
「ああ。そう考えて食べてみると、確かにパクパク食べれますね」と、アヤメも焼き菓子を口に運びながら、同意する。
ガルムは「自分の作ったお菓子を散々褒めちぎられる」と言う、変な状況に出会いながら、マダムが席を外した時に、ぽろっとこんな事を言ってしまった。
「アヤメさんが家に居てくれれば良いのに」と。
アヤメは菓子を食べる手を止め、傍らに置いていたミネラルウォーターで口を漱いでから、「家って、何処の?」と聞いてきた。
心の声を口に出してしまった事に気づいたガルムは、「ああ。その……そろそろ、姉と暮らす家を用意しようかと考えておりまして」と、言い訳を述べた。
「その時、もし、アヤメさんみたいな人が、暇を持て余してる姉と交流してくれたら、安心なのになーって、思って……ですね」
「はぁ……」と、アヤメは気の抜けた返事をする。それから、「アンの様子を見てほしいって言うんだったら、時々遊びに行くとか、出来るけど?」と、述べてくれた。
ガルムは、何故か心持ちが明るくなった。
「是非、お願いできますか?」と、勢い込んで聞き返す。
「うん。まぁ、君達が安心して暮らせる家を探すって言う所から、まず始めないとね」と、アヤメは自分がほとんど「告白」に近い事を言われている意識がない。
おまけに、ガルムも「告白」と同じことを言った意識が全くない。
マダムやアンを間に挟んだ、もどかしい関係はこれからも続きそうだ。
菓子作りの片づけをして、居室に戻って、明るい気分で二段ベッドの梯子を上った。姉と暮らす家を買うと言うのは、とても良い考えなのかも知れない、と心が華やぐ。
それと同時に、そうなると、十四歳の頃と同じように、常にねーちゃんの魔力を受ける様になるわけだけど……と、ちょっと考えてみた。
あの頃だって普通に振舞えたんだから、何とかなるだろうと、何故かポジティブな発想が浮かぶ。
飯作りや菓子作り以外で、アヤメとの接点が出来た事が嬉しいのだと言う、男子として意識しておいたほうが良い事については、全く考えていない。
ガルムの、この変な思考回路は、今まで「心配の種」も「希望的な事」も、彼の生活が全部、姉を中心に回っていたからだろう。
再び、レーネと会話をする日が来た。
健康状態が安定したとして、レーネは軍病院からは退院していた。まだ言語習得に時間のかかる彼女は、ティナの伝手であるホストファミリーの家に引き取られている。
ガルムは、ティナの仲介で、初めて訪れる家の家主達に挨拶をした。その時、ティナから家主達へ「レーネの言語習得のための、重要なヘルパーだ」と紹介された。
その家の庭で、レーネは自分よりずっと年下の、十歳くらいの少年から、明識洛での言葉の発音を習っている。
木の枝で地面に文字や図形を書いて、少年は熱心にレーネに話しかける。
その少年とレーネのやり取りを聞いていると、ガルムとしては「僕はもう必要ないんじゃないか?」と思ったが、少年とレーネが話しているのは、日常会話だけだ。
魔力的な事を聞いたり、レーネの出生を知るには、確かにガルムの助けが必要なのだろう。
少年とレーネの近くに行って、「こんにちは」と声をかけたガルムが、普段より少し明るい表情をしているのに、レーネは真っ先に気づいた。「アルア・ガルム。嬉しい?」と聞いてくる。
「ん? 何が?」と、ガルムは聞き返した。
「笑顔」と言って、レーネは自分の片頬を指先で押えてみせる。
そう言われてから、ガルムは知らず知らずに笑顔が浮かんでいた事を、ようやく認識した。
レーネが指摘するまで、気付かなかったのだとしたら、この数日間、ずっとニヤニヤしていた事になる。
それは気まずかったが、「うん。少し、良い事が、あった」と、文節を区切りながらゆっくり話しかける。
「良い事。レーネ、も」と言って、レーネは、持っていた棒で、地面に猫のような形を描く。「帰って、来た。レーネの、ウィニ」
ガルムはそれを聞いて、レーネの使役する者が帰って来た……つまり、彼女に魔力が戻ったと言う事を認識した。
「その……ウィニは、何処に、いるの?」と聞くと、「ガルムと、同じ、所」と返事が来る。
ガルムの頭に、朝礼の時に現れるようになった、黒猫の事が思いついた。




