10.生きる速度
一番最初に「魔神達の子」として創られた個体の名は、アリシャと言う。外見は、黒い鱗に覆われた皮膚と青い目を持つ、小さなドラゴンの姿をしている。目頭に、アイラインのような赤い線が入っているのが特徴だ。
アリシャは、生れて三年目になる。一年目は囀るような声を発していて、二年目に言語らしきものを話すようになった。
そして三年目になる現在は、言語を記すための記号を習っていた。人間風に言うなら、文字を習い始めたと言う所である。
他の魔神達の「子」の成長は急激で、生れてすぐに正確に喋る者も居た。行動力や判断力を身につけるのもアリシャより早く、アリシャはどちらかと言うと知能に欠陥があると思われていた。
しかし、アリシャの教育係になった魔神は、「人間の子供だとしたら、妥当な成長速度だ」と言って、アリシャがゆっくりと知恵をつけて行く間、辛抱強く面倒を看た。
アリシャの教育係の魔神は、名をアラダと言う。狐顔のドラゴンと言う風な顔つきと、鱗の生えた人間のような両手と、羽毛に似ている毛で覆われた、鋭い爪を備えた両脚を持つ。
背には退化した皮膜の羽根が付いていて、それは部屋の空気を掻き混ぜたい時や、暑くて涼が取りたい時くらいには役に立った。
アリシャが親近感を持つように、魔神の中でも龍族に似た姿をしていると言う理由で、アラダは教育係に選ばれた。
最初の「魔神の子」の教育係と言うのは、その任に就いた当初、とても栄誉のある事だった。アリシャの親である魔神達からも、「この子を頼みます」と、力強く告げられた。
アリシャは一時は城のアイドルだった。様々な魔神達が「向こう側のエネルギー」を使って、面白おかしそうに自分達の「子」を作り、その「子」達は急速な成長が著しいと知られるまでは。
「アラダ。君の所の子はどんな感じだい?」と、別の魔神の子を教育している同僚が、廊下の途中で話しかけてくる。
アリシャと名前で呼ばない事を、アラダは少し不快に思っている。しかし、特に騒ぎ立てはしない。
「新しい術式の記号を、十七個憶えた」と、アラダは答えた。
同僚は少し意地悪そうに微笑みを作り、「優秀だね」と皮肉を言う。
その後で、自分の担当している「子」達は、森林地帯の地理についてしっかり暗記していると唱えた。その暗記した地理に沿って、地図を描く事も出来ると。
「外を飛び回れるんだから、地理を暗記するのは当たり前だろ」と返すと、「そうだったね。君の所の子は、まだ飛べないもんね」と、やはり上から目線の皮肉が返ってくる。
「将来、空を飛び回れることと、術式の記号をおぼている事の、どっちが重要になるだろうな?」と、アラダは疑問の形で皮肉を返した。
同僚は「さてね」と返して、人間のように肩をすくめてみせると、特に今の皮肉の言い合いに興味は無いと言う風に廊下を歩いて行った。
人間の一歳児程度の体つきを持つアリシャは、リズミカルに部屋の中の止まり木に飛び移ると言う遊びをやっていた。
さっきまで、トーキーに使われるバックグラウンドミュージックレコードを聞いていたのだが、針が一番内側まで行って音がしなくなったので、暇を持て余したのだ。
人間の女の人だと思われる、とても綺麗な声の「歌唱」が入っている曲も織り交ぜられていて、アリシャはその女の人の声が好きだった。
アリシャに音楽鑑賞の自習をさせていたアラダが、戻ってきた。「やぁ。もう止まっちゃってたか。ごめんな、アリシャ」と声をかける。「マリンの声は綺麗だった?」
「綺麗、だた」とアリシャは魔神達の言葉で答えた。
アラダは鱗の生えている爪の長い指を一本立てて、「綺麗、だった」と、正確な発音を教えた。アリシャは、アラダが人差し指を立てるのが復唱の合図だと覚えている。
そこで、「きれい、だった」と唱えなおした。
アリシャは「マリン」は自分と同じような姿をしていると、夢を見ている。だけど、見た事も無いような美しい金色の羽毛を持っていて、青い瞳がそれに映えてキラキラと輝いているはずだと思っていた。
それに、何時か「マリン」に出会って、彼女に「貴女の声はとても素敵です」と伝えられる日を夢に見ている。
人間がそんな風に挨拶をするように、「マリン」と頬と頬を合わせて、何だったら自分より年上のはずの彼女に、頭と背中を頬で撫でてもらいたいと夢に見ている。
実際の親にあたる魔神達と触れ合えない寂しさの癒しを、アリシャは「マリン」と言う彼の女神に求めていた。
アラダが、「もう一度聞く?」と言うので、アリシャは「うん!」と元気に答えた。アラダはレコード盤の内側で空滑りしていた針を持ち上げ、レコード盤の一番外に移動させる。
タターン! と言うリズムと共に器楽曲が流れ始める。ダン、ダン、ダン、ダンと言う、リズム楽器の音が響き、其処にピアノの軽快で滑らかな旋律が躍り込む。
アリシャは、再生機の間近にある止まり木まで跳ねて降りて来ると、胸の躍るスペクタクルを連想させる音楽に耳を澄ませた。
アリシャは、早く文字が覚えたかった。もっとたくさん言葉を覚えたかった。「マリン」と出会った時に、たった一言しか声をかけられなかったら残念だ。
レコードの中の「マリン」が歌っている声が、何を言っているのかを聞き取りたかった。だから、アラダに「マリンと、お話、する」と訴えた。「マリンの、言葉、覚える」と。
その発言を聞いて、アラダは人間がそうするように、手の平でアリシャの頬を撫で、首の付け根から背中を撫でてあげた。
それから優しく声をかける。
「そうだね。何時か、マリンに手紙を送ろう。そのために、マリンの歌っている言葉を覚えよう。きっと、とっても素晴らしい勉強になるぞ」
「べんきょう?」と、アリシャは敢えて疑問形で言う。それから、自分で「違う。マリンの言葉、覚える。マリンに、会う。マリン、きっと、優しい」と幼い夢を説明した。
「そうだな。マリンはきっと優しい。だって、こんなに……」
そう言いながら、アラダはレコード盤から流れて来た、艶やかなファルセットに耳を傾けた。
「綺麗な声をしている」
そう言葉を繋ぐと、アリシャは自分の意思が通じたのだと思って、「そう」と答えた。




