意識の奥底~アン町を行く 3~
アンが町長に話をした後、何処から話が漏れたのか、例の道で本当に肝試しをしようとする輩が現れた。
そして町の時間で言うと、日の出の時刻に、例の道で「恍惚状態に成っている者達」が三名発見された。
一人は呆然とすると言う様子で、もう一人は笑みに顔を引きつらせて赤子のように涎をたらし、もう一人は頭の中に伝達物質が急激に放出されては昏倒すると言うのを繰り返した。
呆然としている者は言葉を発する事が出来ず、笑んでいる者は支離滅裂な叫び声をあげた。そして伝達物質の放出を待っている者は、一定時間だけまともにしゃべった。
「彼の方が待っていらっしゃる。救世主の出現を待っていらっしゃる。私達はあの声を聞いた。私達は歓喜に陶酔し、究極の幸福を知った。この喜びは彼の方から頂いた資産」と。
恍惚状態の者達を保護した病院では、まだ精神的な病を負った者を収容する施設がなかった。
そのため、先の三人を養生させるのはかなり難しかった。黙って大人しくベッドに横たわっていてくれることがないからだ。
特に、笑みを浮かべている者は、喋り始めの赤子のような奇声を定期的に上げた。
本物の子供だったら可愛らしいかも知れないが、髭の生えた年齢の男性が「きゅぱりらるら」とか、「ぴきゅーうりりんな」とか「しゅばぼぶびりゃ」等々と言ってる様は不気味だ。
精神医療に関する施設的医術的な発達の不備も発覚したので、町長はそれを記録し、新しい医療施設の設計と専門医の配備などを備えられる月日を、逆算し始めた。
アプロネア神殿の食堂。研究員達に混じって、アンはランチセットを食べる。今日のランチセットはピッツァとグリーンサラダとカフェオレだった。
ペパロニとチーズ以外の蛋白質が少ないな……と、アンは考える。自発的に栄養状態を整える意識を持つことを条件に、お昼だけは自由な食事が認められているのだ。
「アン。Aセットにしたのかい?」と、ある男性研究員が声をかけてくる。「Bセットのほうが君の好みだと思うけど?」
その日のBセットは真ん丸なオムレツだった。但し、中身にビックリするような具が入っているわけではない。至って普通の卵の塊である。
アンは口の中身を飲み込んでから、「いや、卵は昨日までやたらと食べていたので」と答えた。
「食べたい物は何時でも変わるものよ?」と、女性の研究員が先の研究員に声をかける。それからアンの耳に囁いた。「気分と体調で食べたい物が変わるって言う、簡単な事に気づいていないのよ」
「誰かの面倒を看る人は、そう言うものなんですね」と、アンも囁き声で返した。
お腹を一杯にしてから、研究員達の休憩時間でもある十三時までの間を、アンは好きな場所で過ごす。
特に神殿の庭はアンにとってお気に入りの場所だ。庭師の様子を見るにしても、花やら木やら草やらを眺めて過ごすにも。遊歩道の途中のベンチはアンの特等席である。
あれ? と思ってると、ずーっと向こうのほうに、以前「握手のおまじない」をかけてくれた庭師さんらしき人が居る。
ちゃんと確認しようと思って近づいてい見ると、髪を整えているが、確かにあの庭師さんだ。今日は私服だ。庭師の仕事に来たわけではないらしい。
声をかけようとしたが、目の前で結界が光った。一般人用の通路と庭を区切るための結界だ。これでは声は届かないし、内側から見えていても外側から見えない。
私の存在は認識できないのね……と思っていたが、庭師より先を歩いている人物を見て、アンは頭の中に疑問符が浮かんだ。
庭師の先を歩いているのは、まごう事なくアンの実弟であった。
「ガルム君?」と呟いても、向こうに声は聞こえていない。
そのガルムは後ろに居た庭師……のはずの人に気軽に声をかけ、よく見知った者同士と言う風に一般人用の入り口から神殿の中に入って行く。
ガルム君はあの庭師さんの知り合いだったのかな?
アンはそんな事を考えながら、居室に戻った。
思った通り、ガルムと庭師の青年は一緒にアンの居室に見舞いに来た。右の頬に大きな絆創膏を貼っている黒髪の青年は、何か居づらそうにしているので、アンは敢えて「お久しぶりですね」と声をかけた。
庭師の青年は愛想笑いを浮かべながら、「バレちゃってるなら仕方ないか」と述べた。
そして整えてあった黒い髪を崩し、タオルで頭を覆った時のように、前髪を目の周りにペタンとくっつけてみせる。
アンはニコニコしながら頷き、ガルムは「何それ?」と聞いてくる。黒髪の青年は「庭師スタイル」と述べた。
黒髪の青年はノックスと名乗った。
青年達はアンへの「お見舞いの品」として、焼き菓子と炭酸水を持って来てくれた。
「何時も悪いねぇ」と言いながら、アンは室内にある冷蔵庫に、いそいそと見舞いの品を片づける。「そう言えば、この間もらったチョコレート菓子、美味しかったよ」と言いながら。
「ああ。あれねぇ……」と、ガルムは言い澱み、座っていた椅子から立ち上がって、「ちょっと、ドリンク買ってくる」と言って席を外した。
ガルムが変なタイミングで何処かに行ってしまったので、アンは「私、何か不味いこと言いましたかね?」と、ノックスに聞く。
「いや、少し、俺からお願いしてあって」と、ノックスは緊張気味に言い出す。「あの……チョコレート菓子の箱に同封してあった手紙、読んでくれました?」
アンはちょっと前を思い出した。以前もらったお見舞いの品に、白くて四角い封筒のようなものが同封されていた事を。
「ああ。私、あれ、てっきりお店の人のメッセージカードだと思って……」と言って、アンはサイドテーブルの小さな棚を捜索し始める。「捨ててないはずなので、ここら辺にあると思うんですが」
「あ。いや、読んでないなら、まだ、その、特に何でもありません」と、ノックスは変にしどろもどろする。「もし、捨ててなくて、ちゃんと読んでもらえたら……その時、改めて」
「はぁ、そうですか……」と、アンも腑に落ちないと言う風に探す手を止めた。
ノックスは緊張を緩めたように息を吐き、「体のほうは、安定しているんですか?」と聞いてきた。「ガルムから、病状が好転していないから入院生活が続くと聞いたんですけど」
「好転……は、してないかも知れませんが」と、アンも話しを合わせる。「でも、ずっと眠った切りには成らないようになりました」
「そうか。それなら良いんです」と、ノックス。「以前お会いした時は、ガルムが見舞いに来ないって言って困ってたようですけど。この頃は?」
「ご存知の通り。ちゃんと来てくれるようになりました」
そう答えてからノックスの様子をよく見ると、首の右側に、炎が舐めたような黒い痣がある。
「あの……何かの怪我を?」とアンが聞くと、ノックスは「勲章です」と言って、誇らしげに笑んだ。




