16.帰還せし歯車
アン・セリスティアが発見された。
アプロネア神殿の、アンに宛がわれていた居室を監視するカメラに、再び、三秒間ほどノイズがかかった。
次に映像が映し出された時、居なくなった時と同じパジャマ姿で、アンがベッドに横たわっていた。
監視員からの知らせが行き、アンの身の周りの面倒を看ていた巫女が大急ぎで駆け付けると、アンは何事もなかったようにぐっすりと眠っていたらしい。
「アン……。アン・セリスティア。私の声が聞こえますか?」と、問いかけると、ちょっとだけ目を開けてすぐ目を閉じ、「後五分……」と言って、眠りなおそうとする。
どうやら、耳も聞こえているし、眠っても安全な場所に居ると言う事も分かっているらしい。
巫女は、神官と研究者達に事情を教えるため、半泣き状態で廊下を急ぎ進んだ。
朝食の摂取が終わり、いよいよ意識が明瞭に成ってから、「行方不明中のアンに、何があったのかを聞く会」が、アプロネア神殿の研究者の間で設けられた。
「何があったと言われましても」と、アンは言う。「私としては、何時もより気分良く睡眠をとっていた記憶しかないのですが」
「夢の中の事しか、覚えていないと言う事?」と、ある研究者が尋ねる。
「そうなりますね」と、アンはさらっと答える。「夢の内容としては、東洋にある『わたあめ』と言う、ふわふわの飴細工で出来た白とピンクのパンダが、空に浮いて雲を食べているのを眺めていました」
研究者達は考えるような顔に成り、アンの言葉をメモした一人が「夢の内容は、心理診断にかけておきます」と応えた。
「体の調子が整ったら、術的にも身体の検査をしましょう」と、神官の一人が言う。
「まずは、何時もの脈拍と血圧の測定を。それから、行方不明前と変化が無いか調べるので、髪と爪の提出をお願いします。血糖値が落ち着てから、採血もします」と、主担当研究者が述べた。
実際、アンはずっと眠っていた。
アーネットと名付けられた彼女が、以後半年間ほど「思い残しの無い余生」を送るために各地に出現し、知恵に困っている者や力に困っている者を、助けて居たと言う事は覚えている。
アーネットは、「刻を告げる十二人」の中に選ばれた存在としての名前である。刻を告げる十二人に必要なのは、強力な浄化の力。
その力を流し込むことで流転の泉の毒を失わせ、流転の泉の悪性を取り除く事が、刻を告げる十二人に課せられた仕事だった。
遥か彼方の銀河系団に力を流し込む、つまり力を持った生贄として流転の泉まで移動し、その渦に呑まれることを意味する。
双神たる魔術師は言っていた。
「あなた達は、異なる世界に居る神様を滅ぼす事で、この世界での神々となる。それは栄誉であると同時に、新しくあなた達が担う業だ。受け取りたまえ」と。
栄誉に興味は無いが、誰かが担う業を負う事は慣れている。そんな浄化能力者達の心に付け込んだ言葉である事は理解できた。
神である彼等も、手駒を上手く操りたいと言う気持ちはあるのだ。神とされる力を持つからこそ、自分達の本心を隠さない。
準備のために、アーネットは、他の十一人より長くの時間をもらった。流転の泉への移動には、「目的地へ向かう意志」以外を持っていると、余分に魔力が疲弊する。
ある者は子や弟子に意思を託し、ある者は術によって必要以外の自分の記憶を消し、ある者は修業によって目的以外の意識を己から失わせた。
アーネットは「私が関わった一人一人に、リカバリーをしたい」と、欲張りな願いを申し出た。
神格が無いとして、瞬間的に抹殺されていてもおかしくない願いだ。許可が出たのは、ひとえに彼女に過去の功績があったからである。
アンは、術での検査が行われる前にそれ等を思い出し、思い出した物から、記憶の中に封印をかけた。
耳の中に残っているのは、麻痺した心に抉るような痛みを残す罵声だ。嘲りや口汚い声ではない。
アンの中にあった無自覚な傲りを気付かせ、かつて聞いた労わりの言葉を思い出させた、悲しみと怒りを纏う声。
「自分は世界に必要ない?! 誰がそれを決めるんだよ! あんたが帰ってくるのを待って、待って、待って、ようやくそれが叶ったのに……お別れを済ませたから居なくなります?!
俺達は、そんな身勝手な奴のために、時間と力を費やしたのか?! あんたを待ってた奴等の気持ちは、どうなるんだよ?! 明日起きるかもしれない、明後日には、一週間後には、一ヶ月後には……そんな風に過ごしてた奴等の事は?!
あんたの体を生き延びさせて、魂を生き延びさせて、いつか帰って来るって信じて、あんたが生きてくれる事だけ望んでた奴等の気持ちは?!
それを、全部無かったことしようって言うのか?! なんで……自分が世界から消える事ばっかり考えてんだよ!」
そう、息を切らしながら叫んだガルムに、双神の一人は言う。
「心などと言う、不正確なものを信仰してはいけないわ。彼女は、世界を破滅から守るために旅立つのよ。彼女が旅立った後、貴方の住む世界には完全な平和が訪れる」
それを聞いて、ガルムはうっすらと涙を浮かべた目を大きく開き、歯を食いしばるような表情を見せ、突然、笑ったような声でこう続けた。
「平和? 何言ってんだ。生贄を捧げて平和を得るって? お前達こそ、何処の神様を信じてるんだ?」
「私達は信仰しない」と、双神のもう一人が、落ち着いた声で言う。「私達こそが、神なのだ。選択権を持つと言う事でね」
「じゃあ、俺も選択してやる」と、ガルムは言い放った。「そこでボンクラへの階段を上ろうとしてる女が消える事で、世界の平和が訪れるなら……。そんな世界、俺達が滅ぼしてやる」
子供じみた言葉だと、双神は思ったようだ。だが、アンは、ガルムの操れる高圧の魔力と神気の存在を知っている。それに、ガルムに協力するであろう龍族や、もっと他の誰か達の事が頭をかすめた。
力だけではない。彼等には、情報を知り、敵の裏をかく知恵がある。彼等なら、確かに神のように世界を滅ぼしてしまえるだろう。
双神のうちの一人が、少しだけ祭壇のほうに顔を向けた。それから、ガルムにゆっくり歩み寄り、穏やかに彼の手を取った。
そして言ったのだ。
「言いたい事は、それだけかい?」
掴まれた手からガルムの全身に雷が走り、ショックを受けた体は跳ね上がって、その皮膚が焦げた。
追い打ちをかけるように、双神のもう片方は、ガルムの体に固定をかける。ダメージを受けた状態から回復できないように。
その瞬間、「アン」は目を覚ました。反射的に、階段を駆け降りる。
神格を負うと言う業を担う……それを引き受ける事が正しいと妄信していた「アーネット」の、犠牲的精神は削除されていた。
双神は、祭壇を振り返る。
「ガルム!」と、叫んで、アンは「刻を告げる十二人」として与えられていた力で、ガルムの姿を回復させた。弟の影に手を伸ばそうとしたが、触れられもしないまま空間からはじき出された。
次の瞬間には、アンは夢の中に居た。
アンは、最後に、与えられた名前を思い出した。
「アーネット」と、頭の中で念じる。
そしてそれに鍵をかけるように、記憶を封印した。
「さようなら」と呟いて。
静かな居室の中、痛んだ心だけを残して、刻を告げる十二人としての記憶は全て閉ざされた。




