9.長閑な一日
とても暖かい日差しが、燦燦と照り付ける昼下がりである。風が心地好いので、外に出られない日照りと言うわけではない。
知る者も知らない者も、昼食を食べた後の一服を経て、煙草をもみ消し、水筒に栓をし、そろそろ午後の仕事を始めるかと、のろのろ行動を開始し始めた頃である。
農民は鍬を手にし、木こりは斧を手にし、大工はトンカチを手にし、細工師は彫刻刀を手にする。
左官屋は木の箱の中で、壁を塗るための専用の岩を砕いた粉と水を混ぜて練り始める。
食堂を営む者達は、ぞろぞろと帰り始めた客達から料金を受け取り、「頑張りなよ」と言って送り出す。
そんな労働者の中に、十歳くらいの少年が居た。子供だが、栄養が良いのか、鍛錬が良いのか、体は筋肉質に締まっている。自分の背より大きな荷物を担ぎ、大人に混じって食堂から出て行く所だ。
「イヴァン。今日は無理するんじゃないよ?」と、少年から食事代を受け取った女将は、声をかけた。
「大丈夫だよ。膝が悪かったのは、たまたまさ」と、少年は土に汚れたズボンに覆われた、自分の膝を叩いて見せる。「もう治ってる。何も問題ない」
「それなら、これからも無理はしないように」と、女将は言い添えた。
「分かってる。ナーディは厳しいな」と、困った表情を作ると、イヴァンと言う少年は食堂を後にした。
実際、昨日イヴァンは膝に怪我をしていた。転んで擦りむいたと言うものなら、誰も心配しない。本人だって、そのくらいは慣れている。
擦りむけの場合、川や池の水で汚すと化膿するので、水筒に入れて持ち歩ている、泉の水か、煮沸したものを冷ました水で傷口を洗い、血が固まるのを待つ。
出血が止まった後は、自然治癒するのを待つだけだ。黴菌さえ体に入らなければ、そんな荒っぽい治療でも治ってしまう。
だが、昨日のイヴァンの膝は、擦りむいたわけではないのだ。すっかり慣れてしまっていた「キマイラもどき」の襲撃に遭い、その時に体当たりをくらって、膝の骨がずれたのだ。
そのキマイラもどきは追っ払ったが、膝はしばらく悪かった。魔力を幾つか練って、「麻痺」で痛覚を鈍くした状態で無理矢理歩き、何とか、先の食堂のある村に辿り着いた。
女将のナーディに相談すると、村の中で唯一「治癒」の術が使えるお婆さんを紹介してもらい、わざわざそのお婆さんの所に出かけて治療をしてもらった。
治療と言っても、お婆さんが患部に手をかざしている間、昔話を聞くと言う治療である。
お婆さんは大分たくさん歯が抜けていて、喋り方はもごもごしている。何を話しているかはよく分からないが、その話を聞き終わると、何故かどんな怪我でも治っているのだ。
そのお婆さんは、まだはっきり喋れていた頃に、「胃袋が裂ける傷を負った兵士」の命も救ったことがあると言う。
偉人と言うのは、何処に隠れているか分からないなぁと、イヴァン少年は思いながら、仕事の旅路を歩く。
彼の仕事は、主に荷物運びだ。しかし、目標は治療師である。魔力の練り方を知っているので、修業の出来ていない今でも軽い治療ならできる。
本気を出せば、目を失った人の目玉を再生する……と言う芸当も出来るが、そう言う事が出来る人は、むしろ不気味がられて追い立てられるのだと言う事を、そう長く生きてはいない間にも学んでいた。
他人からありがたがられる「治療師」と言うのは、先のお婆さんのように、「何だか知らないけど、そのお婆さんのおかげで体の調子が良くなる」と言う、柔らかい力の使い方をするのだろう。
「世界に必要なのは、優しさなんだな」と、お届け先への野道を歩きながら、イヴァンは哲学にふける。余計な事が考えられるくらい、荷物の届け先と進む道順は、すっかり頭に馴染んでいた。
「奇跡なんて起こしても、一部の信仰熱心な人達が集まって来るだけで、カルトだって言って磔にされちゃうんだから、ほんと、なでなでしたら痛みが無くなるくらいの、おまじないが良いんだよね」
そんな事をブツブツ言いながら歩いていると、また何時ものように、キマイラもどきが姿を現した。
遠くからイヴァンをめがけて走ってくるのは、牙の他に額に角が生え、背に甲羅がある猪だ。
「えー? またぁ?」と、少年は口を歪める。昨日追っ払ったのは、確かこいつと同じ種族だ。
あまり戦闘と言う気分ではなかったのと、昨日膝に痛い一撃をくらった覚えから、イヴァンは角猪の突進を避ける事にした。
とりあえず、手直に生えていた太い木の幹に手をかけ、よじ登る。脚をかけても大丈夫そうな枝に、しゃがみ込んで様子を見る。
角猪は、さっきまでイヴァンが居た場所まで突進してくると、其処に狙う標的が居ない事に気づいた。
普通の猪だったら、姿を隠したまま少し待ってたら居なくなるだろう。
だけど、この手合いの連中って、なんかしつこいんだよな。そうイヴァンは心得ていた。
予想していた通り、角猪は、何時までも木の根元をぐるぐると走り回っている。どうやら、木の上にイヴァンが居る事は分かっているらしい。
そう言う事なら、僕個人に対して敵意を持ってるって事だよねぇ、と、イヴァンは考え、昨日、同じタイプのキマイラを追っ払った時の事を思い出した。
大きな石に魔力を込めて、角猪の頭を叩き続けるようにセットしたのだ。自動的に敵を追いかけて、頭を何度も叩く石は、ちゃんと猪を追っ払ってくれた。
もしかしたら、ずっと頭を叩かれ続けて居たけど生き延びて、石に込めた魔力が尽きて追尾が無くなったから、復讐に来たのかもしれない。
キマイラもどきに効く術は、意外な事に「浄化」だ。浄化をかけてやると、ベースの動物から何かの呪いが解けるように「凶暴さ」と「攻撃性」が無くなり、本来の動物の様子になる。
だけど、一々魔力を練るのが面倒くさいので、今までは石や木の棒に仕掛けをセットして追っ払う事が多かった。
それでは一時しのぎにしかならなくなったと言う事か、と学習し、イヴァンは片手を地面に向けた。手の平に近い場所で魔力を練る。
木の根元をぐるぐる回っては、ふがふが言っている猪に向けて、青い雫のようなエネルギーが舞い降りて行った。
それは猪の進行方向を阻むように滴り、丁度頭を突っ込んできた猪に直撃する。
猪の周りから、放射状に魔力の波が起こった。その体に纏っていた角と甲羅が消滅し、荒くれていた猪は我に返ったように辺りを見回す。
そして、鼻をふがふが言わせながら、森の中へと姿を消して行った。
イヴァンの日常から、一つの脅威が消えて行った、何事もない長閑な一日の事だった。




