30.燈る空
月曜日昼十二時
検査用のインコを連れ、邪気測定器の濃度を見つめる局員が、「濃度五」と唱えた。
その場に居た全員が、安堵の溜息をつき、誰と無く両腕を天にかざしたり、肩を組んで叩き合ったり、深呼吸をしたりする。
この町の邪気の濃度が正常値になったのだ。
最終地点の確認を終え、夫々が局のある土地に帰る事になった。
発電所は機能しないまま残っているが、アーヴィング家の指揮で、近いうちに取り壊す事が決まっている。
そもそも、発電所を建造する段階では、沼のガスが使われる事はアーヴィング家には伝わっていなかったそうで、その件でも法的に電力会社を訴えると、アーヴィング家の偉大なる淑女は宣言した。
ランスロット以外の、東地区清掃チームの全員が補給所に集まり、挨拶を交わした。
「お疲れさま、ドラグーン。ビクビクしたお転婆には、見えないな」と、ギナ・ライプニッツと名乗るウルフアイ清掃局員は言って、アンに手を差し出す。
誰がそんな事を言ったんだと思ったが、普段の自分が普通の人より挙動不審なのは心得ているので、アンは握手を返してから、「お疲れさまでした。ライプニッツさんも、ガーランドさんも、気を付けて」と返した。
補給所を出て行く二人のうち、シェル・ガーランドがライプニッツの背中を殴る用に叩いていたので、「ビクビクしたお転婆」の台詞の出所は分かった。
アンがフィン・マーヴェルのほうを見ると、「私は、店じまいをしてから帰るよ」と言って、その場に残った。
アンは、ポケットから袋入りの焼き菓子を取り出し、「餞別です」と言って、カウンターに置いた。
「なんでも出てくるポケットだな」と笑顔で返し、マーヴェルはくるりと棚のほうを向き、魔女が正装をする時に被る黒いとんがり帽子を手に取ると、振り返ってアンに手渡した。「物々交換だ」
アンは、はにかんだような笑顔を浮かべ、自分の頭に、きゅっと帽子を被せた。
「思った通り。似合うじゃないか」と、フィンは褒める。
アンは「へへっ」と、間の抜けた感じで笑い声を出してしまい、慌てて自分の口を押さえた。
月曜日の午後。
町を見下ろす屋根の上。アンはレンガ屋根に座り込み、黒猫と一緒に「穏やかな静けさ」を取り戻した街を眺めて居た。
日暮れが近い町は、火を焚く煙の臭いと、夕飯の湯気の香りが漂ってくる。
そよ風は少しずつ、飛ぶには良い気流を運んでくる。
「無事が分かってよかった」と、アンは呟いた。「ランスの消息不明が、一番引っかかってたから」
「何せ、魂の状態まで戻ったもんでな。霊体が回復するまで動けなかった。まぁ、おかげで……仮宿が猫に成ったんだが」と言って、ランスロットの憑依している猫は尻尾の先を少し動かす。
「霊符の術は回復できたの?」と、アンは聞く。
ランスロットは、うーんと唸った。
「それはまだだな。人形を操れるようにならんと、どうにもこうにもならない」
「じゃぁ、しばらく猫さんのままなんだね」と、アンは意地悪そうにニヤリと笑み、笑い声で言う。「お腹撫でられないように気を付けてね」
「不気味な声を出すな」と、ランスロットは文句をつける。「誰が人間なぞに腹を見せるものか」
その言葉を聞き、アンは声を抑えて背を丸め、立てた膝の中で、クククと喉を鳴らす。
ぴゅう、と、背中の方から突風が吹いた。帽子がずれかけたので、アンは帽子の縁を押さえて、頭から外れないように術を施した。
「さて、良い風が吹くようになった」と言って、座り込んでいた屋根から立ち上がった。「私も帰りますか」
追い風を背に受けながら、箒を構えようとすると、「アン」と、もう一度ランスロットが呼び掛けてきた。そして、目線も合わせずぶっきらぼうに、「また会えるか?」と聞いてくる。
アンは、その質問が少し不思議な感じがしたが、「うん」と答えた。「また会う気がする」
ランスロットの次の言葉を聞かないうちに、アンは屋根の上から舞い上がった。
踝丈のロングワンピースと、長い白いマフラー、そして灰色がかった白い髪が、風と飛行方向の気流の中で、ふわりと揺れる。
遠くか近くか分からない何処かで、チェロの音が聞こえた。もしかしたら、アンのポケットのペンダントから響いていたのかも知れない。
春が近づいているように風は暖かく、空を覆う夕陽のグラデーションは、まるで虹のようだった。
アンは空を飛びながら、ランスロットは屋根の上に残ったまま、笑顔を浮かべ、ぼそりと呟いた。
「変な奴」と。
一ヶ月後。
一週間の連続勤務により、アンの給料は一時的に増額した。仕事を依頼してきたアーヴィング家が、豊富な資産を持っていたことも所得増額の一端である。
応援部隊まで要請されたことにより、給与の他に、結構な額の賞与も出たのだ。
公に管理される仕事としては、破格の待遇であった。
自宅の居間で、目をウルウルさせながら、アンは給与明細の封筒を拝み、「今月も生き延びれる……」とこぼす。
「そんな危機感持たなくても良いって」と、五つ下の弟が、食器を洗いながら背中で言う。「ねーちゃんの稼ぎ、半端じゃないんだから」
「ガルム君よ。人生には、いつか収入の入って来なくなる時期があるんだよ?」と、アンは弟に説く。「六十年後の事を考えたら、今から蓄えないと。これからガルム君も未来があるんだし」
「君づけはやめてってば。一応、姉弟なんだし」
姉と同じ、灰色がかった白い髪をしているガルム少年は、困ったように言う。瞳の色も、かつての姉とよく似ている、透き通った青だ。
「呼び捨てで良いし、俺の養育費なんて、全然気にしなくて良いんだからね。生活させてもらってるだけで十分ありがたいです」
「そうは行かないよ。ハイスクールには通わせるって決めてあるんだから」と、アンは両腕を上に伸ばしながら述べる。「いつ何時、要り様になるかは分からない」
「十六になったら、俺も働くよ。ねーちゃんが十歳から働いてんのに、俺だけハイスクールとか贅沢すぎるでしょ?」
「いやいや。学を付ける事は、贅沢とは言わないよ?」
「ジュニアハイまでの知識だけじゃ生きて行けないんですか?」
「生きては行けると思うけど、学習すると言う習慣は長く続けた方が頭にも良い刺激があって……」
「毎日クロスワードパズル解いても、学習にはならないの?」
「そりゃぁ、そうだよ。そう言えば、次は何の本が読みたい?」
「いや、その本のお金を貯金すれば良いんじゃない?」
「だから、学を付けるお金を出し惜しんじゃだめなの」
姉の厳しい声を聞いて、ガルムは水道の蛇口を占め、呻く。
「あー。もー。理解不能ー」
「分からない事があったら勉強しなさい」
「ねーちゃんの頭の中が理解不能」
「うーん……。それは私も理解してないからなぁ……」
「脊髄反射で判断する癖をやめて」
「これは職業病と言うかですから、治りません」
姉弟の押し問答は小一時間続いた。




