3.隠れ家へようこそ
月曜日十九時
呼吸の邪魔になる邪気を吸い込まないように、長いマフラーで口元を覆い、アンは教えられた道順を商業施設まで歩いていた。
足元は硬い岩盤で出来ており、ランタンを掲げて見上げてみると、崖だと思っていた岩壁に、地層が浮き出ている。
どうやら、アーヴィング家の屋敷があった辺りが、大本の地面であり、この町のある地層は岩を砕いて深く地中を抉った場所のようだ。
鉱山跡を町にしたのか……と、アンは納得した。
そんな風に周りを観察できるくらい、特に、死霊らしき者とは出会わなかった。
だが、静まり返っていると言うわけではない。民家の中からは、何処かの国の呪文を唱える声や、悲鳴のような泣き声、怒声、罵声等が聞こえてくる。
発狂したように発せられる声の渦は、静かであるより異様だった。
上空から感じた「ざわめき」には、恐らくこう言った声の類も含まれていたのだろう。
町を進んで行くにつれ、煙状の邪気が濃くなってきた。顔や頭や手足に絡みつきそうになる邪気を、箒で払い払い進む。
商業施設の前には、電飾だったらしい硝子玉をつけた大きな看板が、根元から折られて転がっている。
打ち捨てられた設備に躓いて怪我をしたりしないように、硝子の破片を踏みながら建物の内部に入った。
割れて火花を散らしている電球が、至る所にある。
荒れた店内を見回して行くと、たまたま近くを通ったブースで、誰かの怨憎の声がした。
「妻を返せ。子を返せ。憎らしい。憎らしい。あの女。フィン……」と。
壁に隠れながらよく見てみると、四肢を失った黒い霊体が、もぞもぞと移動しようとしている。
一定の距離を前進すると、何かの術が発動して、霊体は元の位置に戻る。それから、さっきと同じ恨み言を呟きながら、もぞもぞと移動しようとする。
不気味さを覚えたが、動けないようにしてあるなら放っておくことにした。
でも、フィンって言ってたよね。マーヴェルさんが、あの霊体をあの場所につなぎ止めてるって事? 邪霊の妻と子供を始末して……と、考えているうちに、三階のスタッフルームの前に来た。フロアは粗方見回してしまっている。見てない所と言えば此処だけだ。
足音を殺しながら近づくと、扉の向こうから、「誰だ?」と言う鋭い女性の声が聞こえた。
「あの……。私、今日配属された、ドラグーン清掃局の……」と答えると、「声から魔力を消せ。見つかる」と言う、魔力を発さない声が聞こえてくる。
そこで、声に籠る魔力を抑えてから、「アン・セリスティアです」と名乗った。
「セリスティア……。了解。ラムから話は聞いてる」と言う声と一緒に、スタッフルームの扉の鍵と封印が開けられた。
部屋の中に入ってみると、壁を覆う棚中に、食品や簡単な医薬品、魔力を回復させるための薬や補う道具、唯のぬいぐるみに見える物から、マッチや蠟燭やランタンに詰める燃料まで揃っている。
邪気だらけの店舗の中より物資が充実しているような気がした。
フィンは、話で聞いていた通りに、金色の髪の女性だった。ウェービーヘアーを一結びにして、迷彩服を着ている。灰褐色の瞳は凛としていて、清掃員と言うより兵士のようだ。
「私がフィン。ファルコン清掃局の清掃員。よろしくね、アン」と言って、片手を差し出してきた。
その手を軽く握り返し、「あの……」と、アンは言いにくそうに言う。「貴女の事、マーヴェルさんって呼んで良い?」
フィンは目を瞬いて見せたが、「貴女がそう呼びたいなら」と応じた。
マーヴェルが「アーヴィング家で聞いたかも知れないが」と前置きしてから教えてくれた話によると、この町に住む邪霊は、みんな「電灯」のある場所から発生している。
先に何処かに残っている電灯を破壊して、それから周りに充満している霊体や邪気を払うと言う手順で進めないと、敵は無限に湧いてくると言う事だ。
「此処にある物資は、好きなように使ってもらって構わない。だけど、物資が無くならないように新しい素材を持って来てもらえると助かる。つまりは物々交換をさせてくれ」
アンは「分かった」と答えた。「早速だけど」と言って、ポケットから取り出した箱入りのキャラメルを、蝋燭三本と箱入りのマッチに交換してもらった。
取引が終わってから、マーヴェルは続ける。
「疲れた時は、この奥にある仮眠室を使って良い。ベッドに状態回復の術をかけてあるから、二時間も眠ればすっきり起きられるよ」
そう言って、親指で自分の背のほうにある隣室を指さした。
月曜日二十時
準備を整えてから、アンは商業施設の周りにある公園の「お掃除」を始めた。ランタン明かりが届かない場所には、目印のための蝋燭を点す。
口と鼻をマフラーで覆い、魔力を通した箒で、掃き上げるように邪気を追い払う。アンの箒が触れた部分から、邪気は浄化されて淡く光を放ち、滲むように消えて行った。
特に攻撃を仕掛けてくる死霊にも遭遇せず、一定の場所から邪気がなくなったのを確認した。それから、アンは箒を空中に放り、回転させて柄をつかんだ。掃き清めた範囲が結界に包まれる。
その動作を繰り返し、小一時間ほどで公園の掃除は終わった。目印にしていた蝋燭を吹き消し、くっつけてた蠟を剥して、冷めるのを待ってからポケットに押し込んだ。
改めてぐるりを見まわし、仕損じがない事を確認すると、鉄柱に貼られていた札から、「順調に進んでるか?」と、ランスロットの声が聞こえた。
声に魔力を込めないように、「ようやく仕事始まり」と告げた。「だけど、死霊とバトルって言う感じじゃないね」
「そりゃそうだ」と、ランスロットの声は言う。「その辺りの電灯は、大体壊してある。もしかしたら見つけてない明かりがあるかも知れないから、油断はするなよ」
この人は、安心させようとしているのか、脅そうとしているのか、と考えてから、アンは「了解」と答えた。
地図を見ながら術を展開していたフィン・マーヴェルは、邪気の波が、ある方向から町中に広がっている事を突き止めた。
通信の術を起動して、霊符の中を行き来しているラムの波動を捉える。
「ラム。こちら、フィン」と名乗ると、「何かあったか?」とラムの声が返ってくる。
「邪気の方角が分かった。町の北東。中央に位置するのは……」と、マーヴェルは地図に目をやりながら言う。ぐっと唾液を飲み込んでから、「発電所だ」と伝えた。
「発電……」
ランスロットが復唱しきる間もなく、公園の近くのマンホールから、邪気が沸騰した蒸気の様に噴き出した。続いて、ごぼごぼと黒い粘液が湧き出て来る。
「なんで、地下に死霊が……」と、ランスロットは口走る。
「どうした?」と、フィンの声が聞こえる。
「マンホールから邪気と死霊が溢れてきてる」と、ランスロットは通信を送る。
フィンはそれを聞いて、舌打ちをした。「下水道の照明だ」
恐らく、下水道に設置されていた照明から、空間いっぱいに邪気が蓄積したのだろう。その邪気は霊を伴い、地上に勢力を伸ばそうとしている。
「アン。すぐに撤退……」と、ランスロットが言いかけた時、アンは道路に駆け出してから大きく跳躍し、「えい!」と言う掛け声と同時に、両手で握りしめた箒でマンホールを叩いた。