真夏の夜の怖い夢~マナムの所へ 1~
さて、これは願祷洛に住む少年のお話です。少年の名前は、マナム・ロータスと言います。
真っ黒な長い髪を、頭の後ろのほうで短く結っていて、日に焼けた褐色の肌をしています。ですが、服で日光から隠れている部分は、薄いオレンジ色をしています。
マナムは、緯度が北の方の土地から移住して来た子なので、日に焼けないと皮膚の色が強くならないのです。
彼は今、初等科の学校で勉強中でした。何の数字を二つ合わせれば、「割って二になるか」を考えています。
その問題を解いている子供達は、みんな思い思いの二つの数字をノートに書いていました。マナムも同じです。
一桁の数字を選ぶ子も居れば、三桁の数字を選ぶ子もいます。でも、答えが「割って二になる」のなら、何でも正解なのです。
その頃は、人間と魔獣と永劫の者と龍族まで巻き込むことになった「大戦」が終結して、二年目の事。夏も盛りに成ってきました。
謎の粉塵被害に伴う、眼病や呼吸器の病気などが一時的に広まりましたが、電気文化圏の願祷洛では、その謎の粉塵に対して、魔術的にほとんど手の打ちようはありませんでした。
それに、潜在的に魔力を持っている人達は、被害を受けても花粉症のような症状だけですっかり治ってしまいました。
体の中に粉塵が入ったことで病を引き起こした人達も、まさか魔獣の体を作っていた粉を吸い込んだことで、病気になったと思って居ませんでした。
そんな環境下でしたが、マナムは授業が終わってから、クラスメイト達に頼んで、願祷洛での言葉を教えてもらっていました。
願祷洛の言葉を使い始めて一年で、会話はすっかり覚えてしまったのですが、まだ文字の書き方や文法は苦手で、仲良しの子供達から「此処は違うよ」とか、「こう言う書き方もあるよ」と学んでいます。
学校での勉強を終えて、マナムがイズモ達が待っているマンションに帰る途中、背後から子供の声がしました。
外なのに、何処かの密閉された空間で響いているような、反響を感じる声でした。
「あーそーぼ。あーそーぼ。むにゅみゅにゅむにゅくん。あーそーぼ」と言う風に、マナムには聞こえました。
マナムは後ろを振り返りましたが、誰も居ません。
夕陽の中に、町の建物の影が広がり始めているので、オレンジ色の光と紺色の影の強さで、目がチカチカしました。
「あーそーぼ。あーそーぼ」と、また何処かで声がしました。
姿なき者の声には気を付けなさい、と常々イズモから言われているのを思い出して、マナムは返事をしないまま家の方向に走り出しました。
マンションの前で、ロックを開ける装置に家のキーナンバーを入力すると、玄関の自動ドアが侵入を許可します。
その後、エレベーターで上の階に行って、家の鍵として預かっているカードキーを、読み取り装置にかざします。ランプが青く点灯し、施錠が解かれました。
急いでドアレバーを押して、家の中に滑り込み、しっかりドアを閉めてから、マナムは大きく溜息を吐きました。
「ベス。ベス、居る?」と、絶対に家に居るはずのハウスキーパーを呼びました。
廊下の奥の扉が開き、白い髪と青い目の、水色のワンピースを着た女性が、スリッパを鳴らしながら歩いてきます。
その女性は、ワンピースの上にエプロンをしていて、背中の真ん中あたりで切りそろえている髪を、首の後ろで結んでいました。年の頃は十八歳くらいでしょうか。
女性はマナムの前に来ると、自分よりずっと背の低い少年を見て、にっこりと微笑んで言います。
「いるよ。マナム」と。
そう言われてから、マナムは大事な事を思い出しました。
「ただいま」と、声をかけると、ベスと言う女性は「おかえり」と答えました。そして言います。「あるよ。おやつ。洗って。手。代えた、から。タオル」
ベスと言う女性の喋り方は、見た目に反して覚束ない様子です。全体的に倒置法が多くて、まだ言語を学び始めたばかりの様でした。
「ありがとう。鞄置いたら、リビングに行くね」と返事をして、マナムは自分の部屋に移動しました。
元々は物置だった部屋を片付けて、子供用の机と椅子とベッドだけを置いた簡素なマナムの部屋の床は、よく磨かれています。
だけど、マナムは土足で歩くその床に、座り込んだり横たわったりは出来ませんでした。
靴で歩く場所は外と同じと言う、生れついてから躾けられた感覚と、町の地面は汚いと言う後から覚えた言いつけから、マナムは「座るのは椅子だけ」と「寝転がるのはベッドだけ」と憶えていました。
コート掛けのフックの一つに鞄を吊り下げ、自分の部屋の決まった場所で靴を脱ぐと、すぐ隣に置いてあったスリッパに履き替えました。
それから、ベスが待っているはずのリビングに行きます。
リビングのテーブルの上には、動物や星の形をしたクッキーが入っている皿と、ミルクティーのカップが置かれていました。
食べる前に手を洗わなきゃ、と思って、マナムは洗面所のほうに足を進めます。
洗面台に背伸びをして手を伸ばし、レバーを起こして水を出します。流水を手で受けて、ハンドソープのポンプを押しました。
手の平で石鹸を泡立てながら、何となく目の前の鏡を見ると、背後に白くて背の高い影が映っていました。
マナムはゾッとしましたが、よく見てみれば、それはさっきマナムが声をかけた、ハウスキーパーのベスの姿でした。
「ベス。脅かさないでよ」と言いながら、マナムは流水で手を濯ぎます。それから手首で水道のレバーを水平に戻して、洗面台の横にある清潔なタオルで手を拭きました。
その様子を、ベスは不思議そうに見ています。
それから、「友達。マナム? その子」と聞きました。
マナムは訳が分からなくて、「どの子?」と聞き返しました。
「マナム。右側。その子」と、ベスは覚束なく言います。
ベスの言葉が分かりずらいのはマナムも慣れている事なので、「後でゆっくり話そう。まずはおやつが食べたい」と、自分の要望を伝えました。
「うん。あるよ。クッキー」と、ベスは答え、マナムの左手をそっと握ってリビングに連れて行きました。




