29.アダムとイブ
金曜日午前八時
外壁はレンガ造りで、内装は琥珀色の木と、丈夫で柔らかい布で作られた新しい家に、エムツーとサブターナは引っ越した。
ペットとして、エムツーにはトカゲ、サブターナには猫が与えられた。
しかし、エムツーはトカゲと猫を自分の考えた名前で呼んで居た。
サブターナは、それは種族の名前じゃなくて、個体の名前にしようと提案した。
「ダメー。もう決めたんだから」と、エムツーは反抗心を出した。
「じゃぁ、その種族の、『エルマ』って名前で、私はこの子を呼ぶ」と、サブターナも譲らない。
「僕が名前を付ける係だよ?」と、エムツーは自己主張をする。「サブターナの意見は聞けません」
「喧嘩をしないの」と、教育係の声がした。
教育係は毎日この家に通ってきて、創世の勉強の他に、家での暮らし方の説明をしてくれる。
食事の準備や家事も全部やってくれるので、双子の仕事は、勉強をする事と、ペットと遊ぶ事くらいだった。
この家に来てから、其れまでの下着とパジャマだけではなく、エムツーは白いシャツとサスペンダー付きの紺色の半ズボン、それから靴下と靴を身に付けた。サブターナは黄色いワンピースを着て、やはり靴下と靴を身に付けた。
サブターナが「この子の名前、『エルマ』にしたの」と教育係に言う。
エムツーは、きっと怒られるはずだと思ってニヤニヤした。
しかし、教育係は「それなら」と言って、ポケットから取り出した首輪の飾りに、「エルマ」と言う綴りを術で浮かび上がらせた。
「これを、その子の首につけてあげなさい。貴女のペットだって言う印よ」と、教育係は言う。
サブターナは目を輝かせ、「ありがとう」と言って首輪を受け取り、まだ一歳にもなっていない小さな子猫に首輪をつけてあげた。
子猫は、付け慣れないものを首に巻かれて、しばらく嫌がっている様子だった。後足で首を搔いて、首輪を外そうとする。
「駄目よ、エルマ。慣れるまで我慢してね」と、サブターナは早速、自分のペットを自分が考えた名前で呼ぶ。
エムツーは、思ったような展開にならなくて、不貞腐れた顔をした。不機嫌そうなエムツーを見て、教育係は「貴方も、人と言う種族の『エムツー』でしょ?」と聞いた。
「分かってるけどぉ……」と、エムツーは愚図る。「僕が全部の名前を付ける役なのに」
「そんなに自分勝手がしたい夫なんて、私、嫌だ」と、サブターナも不機嫌が移ってきた。「エムツーがワガママ言うなら、将来、子供を生んであげないよ?」
そう言われると、エムツーは返す言葉もない。
「ごめん」と呟いて、「だけど、種族の名前を決めるのは僕だからね」と、やはり自己主張する。
「好きにすれば?」と、サブターナは言って椅子に座り、「先生。今日の勉強、始めましょう」と、教育係に声をかけた。
眠らされた双子は、頭に複数の電極のようなものを取り付けられ、夢を見ていた。
夢の中の「大きな家」で生活し、教育係の術と声に従って学びを得た。
栄養は、口に引っ掛けられたチューブから流れてくる流動食が与えられた。「新しい施設」に移動して、電極を数個の頭に取り付け、口にチューブを引っかける夢を見せてから、電極を一部外し、二人の意識を覚まさせる。二人は、眠って居た事には気づかない。
「さぁ、身体検査は終わったから、今度は体操の時間よ」と、教育係は声をかけ、全部の電極とチューブを外して、二人に筋肉を育てるのに必要な運動をさせた。
これが、新しい「アダムとイブ」として育てられる事になる、子供達の生活の全貌である。
金曜日午前八時
エムが目を覚ました事を、東地区の補給所に居たメンバーは喜んだ。
フィンがエムに、事件に関わる事を幾つか質問をしたが、エムはぼんやりしたまま、「わかんない」と答える。
細かく質問を繰り返すうちに、エムは自分が邪気を腹にためていた事や、急速に成長してからアダムと名乗っていた事等の、一連の記憶を失っていると分かった。
それでも、自分が、ターナと言う女の子をいずれ妻にするのだと言う部分だけは覚えていた。
そのターナが魂だけになっていることも、何故なのかは理解できないようだったが。
エムは、ファルコン清掃局で保護、教育される事になった。魂を見通す力があるのなら、今後、それ以外の力を獲得する可能性もあるだろう。その体に大量の邪気を受け入れられるだけの耐久力がある事を、アン達は知っている。
ターナの魂はエムに付き添い、二人は一緒にファルコンの局員達に連れられて行った。
金曜日十三時
人員が増えた事と、発電所が完全に沈黙した事、邪気をそれ以上増幅する物が無くなった事で、町の大掃除は着々と進んでいる。
気力を取り戻したアンも、他のドラグーン清掃局員達と連携して、再び熱心に働き始めた。
箒を振るう手にも、力強さが戻っている。
「アンが到着した当初」の様子を、他のドラグーン局員に聞かれる事もあり、その説明にも時間を割いた。
仕事をしながら、アンは時々、ランスロットは何処に居るんだろうと考える。
彼の術を纏っていた霊符はあちこちで剥がれ落ちていて、触れても結界を起動したりしなくなった。表面からは白いインクが消えており、唯の黒い紙に戻っている。
ランスロットが通信のための中継所にしてた建物の中には、針で止められた紙の人形があったが、其処にも彼が居る気配はなかった。
アンの手の中から飛んで行った二つの魂。それが、ターナとランスロットだったのなら、彼は何処かで存在しているはずだ。霊体としてなのか、それとも人形に宿っているのかは分からないが。
日曜日昼十時
各清掃局からの応援部隊は引き上げ、元々派遣されていた数十名だけが町に残った。
建物や公共設備や植物のような動かない物質の、細かい所に残っている邪気を削除して行く。
一番楽だったのは、配管の通ったことが無い土地がある西地区を担当した者達だっただろう。
配管の撤去が完了されていた南地区はその次だ。
そして比較的濃度の濃い邪気が蔓延っていた東地区を片づけ、何度も行き来した中央地区を最終点検してから、北地区の点検に移った。
邪霊の発生源であった発電所は応援部隊により入念に清掃されており、どの局の誰が見ても「邪気のじゃの字もない」と口を揃えた。
動かなくなった発電機の中には、炎の欠片も残っていなかった。
本当に綺麗になったもんだねぇ。
アンがそんな事を考えながら、一人うろうろと所内を歩いていると、あるドアの先の廊下を通った時、違和感を覚えた。
何か、この空間が一時的に「霊的に隔離されていた」ような気がする。
念のために壁に手をふれてみたが、残存魔力波は感じ取れなかった。
特に物証は無いし、邪気の気配もない。彼女の勘でしかなかったので、報告するのは控えた。
その廊下が、エムツーとサブターナを「向こう側の世界」に連れて行った場所である事は、誰にも知られる事は無かった。