30.心に刻む事
明るい空が見えている時だけが、良い天気じゃない事を知っている。時々、雨が降って、光を歪ませる。その晴れ間に、空に鮮やかな色彩のアーチが見える。人は、それを虹と呼ぶ。
アンさんは、自分が何時も「何処からか聞こえてくる不思議な音楽」だと思っていたものの、原曲を見つけた。
ガルムさんが持って来た「音楽記録装置」の中にあった、テープの一つにその曲は入っていた。題名は、「虹へ向けて」。タユタと言う名の、女性チェロ奏者の作った曲だ。
タユタは交響曲界でも花形のチェロ奏者だったが、十数年前のある日に姿を消した。彼女の当時の恋人は、「病にかかって床に臥せっている」と話した。
実際の彼女は、チェロと弓だけを与えられて、辺境にある家の一室に閉じ込められていたのだ。
明らかにタユタの恋人の犯行なのだが、タユタは外に助けを求める事をせず、その一室でずっとチェロを弾き続けた。
彼女の行動については、様々な憶測が成されたが、チェロを休みなく弾く事で、外に自分の危機を知らせようとして居たのだと言う説が有力だ。
だけど、アンさんが出会った時の「タユタ」は、既に霊体になった姿でチェロを弾いていたらしい。自分の弓の音に集まって来る死霊達を、何も考えず空間を揺蕩うだけのものに変えていた。
恋人がタユタを閉じ込めたのは何故か、タユタが外に助けを求めなかったのは何故か、タユタの弓の音は、何故死霊達を穏やかにするのか。
彼女の恋人とタユタの間にあったものが、唯の独占欲と恐怖だけだったなら、その後の不思議な出来事の理由は分からないだろう。
ノリスから、蜂蜘蛛の住処の新しい情報をもらった。守護幻覚と言う双子を失った人間の子供達の数は半分に減って、今住処に居るのは約十五人。
集団が小規模になったためか、ニナと言う男の子に対してのいじめは縮小されていると言う。
蜂蜘蛛達は新しい世代の女王を得て、以前の世代の女王達の作った房を破壊した。そうしないと、新しい房が作れなからだ。
普通の蜂だったら、住処である巣穴から去って、別の場所に房を備えられる住処を作るのだが、ノリスが居た住処で生まれた、新女王の内の一匹が、「この住処を受け継ぎたい」と言い出したのだそうだ。
蜂の本能とは違う、別の思考が働いているのだろう。
すっかり幼虫達の居なくなった古い房を壊して、蜂蜘蛛達と人間の子供達、そしてノリス達が新しい房を作ろうとしていた作業の最中、ノリスの相棒である女性が、ふと額を押さえた。
辺りを見回し、作業の途中でじゃれ合っている子供達と蜂蜘蛛をぼんやりと見つめ、ノリスに声をかけ、「ゆりかごの部屋」の外に連れて行った。
そしてこう言った。
「思い出したの」
彼女は、何度も瞬きをしてみせる。ぼんやりとしていた表情に、段々生気が戻る。
「私の名前。カオン。カオン・ギブソン」
それを聞いて、ノリスは相棒の肩を叩き、笑顔で頷いた。
ジークさん達、龍族の事も書いておこう。彼等は、彼等の世界で尊崇の念を集めているメリュジーヌと言う女性に従って、以前の戦いに参戦していたのだと言う。
そのメリュジーヌさんが、アンバーの出会った「ガーネット」である事は、ヤイロ父さんの遺した記述と、私の中に残ったアンバーの記憶、それから龍族達の証言で分かった。
メリュジーヌさん達の事は、国にあまり報告しないでくれと口止めされている。勿論、私も彼等の情報を暴こうとは思わない。
「それは教えて良い」と言われた範囲の事としては、争いの当時に意識を操られて重傷を負った、シャニィと言う名前の女性は、今は仕事に復帰してバリバリ働いている。
但し、怪我の影響で重たい物を抱えて運べなくなってしまった。洗った洗濯物の山くらいは持って歩けるが。
仕事の端々に難が付きまとうので、町の中から選ばれた「腕力が強くて秘密を守れる魔力持ちの男性」が、シャニィの仕事を助ける下男として働き始めたそうだ。
マナム君と折々に連絡を取る。彼は、マコトちゃんから受けとった「不思議な記憶」についてを細かく教えてくれる。主に「世界の隙間」と言う空間での現象についてだ。
私がアンバーから受け取った記憶の中にも、幾つか「世界の隙間」についての出来事が残っている。
案内人が言うには、流転の泉と呼ばれる、意思を持った大きな星の渦が、テラと言うこの星そのものや、永劫の者に関係する出来事の源だそうだ。
だけど、宇宙規模の存在の根源を断つなんて、人間には出来ない。勿論、龍族や他の……アンさんのような、古い血筋を引く者にだってできないだろう。
出来る事なら、テラの存在がもう、「深くから来た者達」の興味の対象から外れてくれることを、望むばかりだ。
此処までをしたためて思うのは、慈悲深い国王様達は、きっと此処に記した個人の「自由意志」を邪魔したりしないだろうと言う事だ。
雨が降れば虹が出る。哀しみの一時を過ぎれば、目の前には色彩のアーチが広がり、晴れようとしている青い空が見えるだろう。
今の世界は、観察者の視線を離れている。だけど、この星の組成の中には、私達の血の中には、彼等「深くから来た者」と同じ性質が残っているはずだ。テラが生物を生み出すときに、その要素は受け継がれているのだから。
その「毒」とされる恐ろしい力を、命を繋ぐための力に変換するエネルギーが必要である。
そのために、私達は魔力と呼ばれる力を操る。
私達の持っていた「主」としての神気は、今は極穏やかに抑えられている。敵対するものが失われ、それを纏って居なければならなかった時期が過ぎたからだろう。
そろそろ、カーラと連絡を取る時間だ。私の耳に、何処からかチェロの旋律が聞こえてくる。私も、その祝福を受け取れるようになったのだろうか。
アンバー、貴女にはこの音が聞こえていた?
神殿やユニバーシティでの研究はまだ続くから、これからの私達の「寸劇」も続いて行くだろう。人間の一生を紐解くには、そのくらいの短さで良いのだ。
以上を以て、私、サクヤ・センドのこの度の記述を終える。




