10.闇の中へ
ダン、ダン、ダン、ダン、と、赤子が一歩手をつく度に、岩の地面に衝撃が走った。巨体を持つ赤子は、這い歩きながら、低空域を飛んでいる獲物を、地面にねじ伏せようと追い回している。
「しつこいなぁ……」と言いながら、アンはまだガルムを地面に降ろしていない。降ろすタイミングが無いのだ。
「ねーちゃん。普通の方法を考えてちゃだめだよ」と、ガルムはなるべく戦いのほうに頭を置いた。「もうちょっと高い所まで飛んで。飛び降りるから」
「着地地点でつかまっちゃわない?」
「いや、俺、神気体だから……。飛べるし、よく考えてみたら、瞬間移動っぽい事できるんだよね」
「何故それを早く言わぬのよ」
「言いそびれていた」
そう言う事にしておいた。決して、自分にはやましい気持ちは無いと言う事にしておいた。ねーちゃんの腕の中ってのは中々暖かくて柔らかいんだなとか、考えてなかったことにしておいた。
じゃないと、箒の上と言う極小空間で、胸と胸がくっつく密着状態で、自分は何をしだすか分からない。管制室の集団監視がある事も忘れてしまいそうだ。
なんだったら、アンナイトが気を利かせて視覚情報を切断するかもしれないが……目が見えなくても、匂いとか、体の感触が、と言うかなんと言うか……と、頭の片隅は変な事を考え始めている。
「じゃぁ、ハイハイ熊さんの真上まで飛ぶよ!」と、アン。箒が、一気に急上昇する。
「了解!」と、ガルムは我に返って答えた。
その頃、明識洛のハンナの屋敷では。
キーナとの通信が取れない事を危ぶみながら、ハンナはカーラに通信を送り続ける。しかし、ノイズ混じりの映像が届くばかりで、念話が通じている様子がない。
蝙蝠猿達が、結界に何かをした気配は分かっている。以上のある個所を特定しようとして、屋敷の結界に群がっている個体の数だけ「印」がある事に気づいた。
何より、結界を直す前に、魔獣を追い払うか、霊力が正常に起動するように術式を修正しなければならない。
ジークに応援を頼もうと、海峡を挟んだ大陸の向こうへ、通信を飛ばした。
日暮れが迫って来た。朝起きた直後から、時間のほとんどを移動に費やしていたカーラは、自分が「何も食べなくても、飲まなくても、休憩しなくても疲れていない」事に、多大なる違和感を覚えている。
空を泳ぐ間、そう言えば神気と言うものは、魔力とは違うらしいなと思い出した。
ハンナからの説明では、神気と言うのは非常に高出力の魔力に似ている。しかし、魔力のように個別の許容値に制限される能力ではなく、外界から必要とする力を集めて発動するものである。そのため、神気を纏っている間は、カーラが必要とする力を自然界から集めることができるはずだ、と。
常に行動しながら、体を回復させていると言う事?
そう考えてみたが、やっぱり違和感がぬぐえなかった。
脳裏に浮かぶ視界は、街を抜けた先の畑を超え、広葉樹の森に続く。
ハンナからの指示では、その森の中にある「異界の入り口」に、潜入してほしいと言う事だ。
宵闇の中で、実際に森を歩くことになったカーラは、其処に在るはずの「それ」を見つけた。
入り口は獣道に似ていたが、光魔球を操りながら低木の下を覗くと、光が無い状態の闇とは違う意味の、暗澹とした「暗闇」が潜んでいる。
「本当に、此処に入るの?」と、カーラは確認する。
「ええ。入り口は、ちゃんと固定しておくから」と、ハンナの声。
昼のある時点から、通信が念話ではなくなったのだが、それについては「秘密の事」だそうだ。
初めの話では、異界の入り口を塞ぐだけだったのに、なんで自分が異界の入り口に入らなければならないのだろうと、カーラも思わなくはなかった。
しかし、その事についてハンナは、「それが必要だからよ」と言うだけで、細かい理由を教えてくれない。
情報が不十分だけど、自分がまごまごしているせいで、他のみんなが大変な事になってたりしたら、大変だもんな……と言う、なんとも落ち着きようのない言葉を、頭の中に彷徨わせた。
「じゃぁ、行くね」と言って、カーラは獣道に向かって体を構え、大きく息を吸う。
「いらっしゃい」と言うハンナの声が聞こえた。
行ってらっしゃいじゃなくて、いらっしゃい? その疑問が頭をかすめた時には、カーラの体は獣道の中に飛び込んでいた。
暗い空間の中に、朱緋色の炎が燈る。
「カーラ・マーヴェル」と、女の子の声が呼ぶ。だいぶ幼い声だ。
そちらの方を見ると、片手の上に炎を燈した、まだ十歳にもならないような幼い女の子と、その女の子よりだいぶ背の高い……二メートル以上は背丈のある若い女性が立っていた。
その二人を守るように、大きな八つの目を持つ、人より体躯の大きな蜘蛛達の群れが、空間の際に並んで居る。
「はじめまして。私は、サブターナ」と、少女は名乗った。「『エデン』の代表として、貴女に伝えたいことがある」
そう言って始まった話は、サブターナの出生と、「魔神と魔獣の生きられるエデン」を作る意義、そして危害を加えて来なければ、「エデン」の者達は古い人類に敵対する意思はないと言う訴えだった。
カーラはその話を聞き、頭の中で考えた。それから問う。
「その、『魔神の生きられるエデン』は、何処に作るの?」
「その問題に、ずっと頭を悩ませてた。みんなで」
サブターナの言う「みんな」は、魔神や魔獣達を含める、エデン側の者達と言う事だろう。
「何処にエデンを作っても、『向こう側のエネルギー』は、古い人類を害してしまう事になるの。そうすると、古い人類達は危機を感じて、私達を滅ぼしに来る……。その繰り返しが続いてた。
それで、まだ、誰にも言ってなかったけど……。私、考えたの……」
サブターナが何かを打ち明けようとした時、さっきの長身の女性がサブターナの横に歩み寄り、身をかがめて、小さな肩を押さえた。
「それ以上は言っちゃいけない。『みんな』は、これを聞いてるから」と、女性は囁く。「帰ってから、先生達と、その考えを話し合おう」
サブターナは小さく頷き、もう一度、カーラのほうに目を向ける。
「これから、私達の住んでる所に案内する。ちょっと、『向こう側のエネルギー』が強いけど、貴女は神気を纏ってるから、きっと大丈夫だと思う」
そう言って、少女は先を歩き始め、蜘蛛達も後に続く。
長身の女性が、驚かさないようにゆっくりカーラに歩み寄り、「安心して。危害は加えない」と言うと、足のすくんでいるカーラの背を、片手でそっと押した。




