3.戦場・明識洛
空気の冴える、まだ薄暗い明け方の事。
明識洛の自宅のベッドの上で、カーラは目を覚ました。
パジャマ以外の物を着ている感覚がして、ブランケットをめくった。全身が、羽根のように具現化した神気と、月色の鎧で覆われている。
ハンナからは、「明日に成ったら変化がある」と聞いていたが、目を覚ましてすぐに変化があるとは思ってなかった。
鋭敏になったカーラの意識野の中に、「遠くから飛んでくる黒い獣の群れ」が感知できた。
あれが、ハンナの言ってた「何者か」だろうか、とカーラは考えた。
明識洛全土では、人間の軍隊による反撃の用意も成されている。
ハンナの話によると、カーラは「何者か」が現れてきている場所を突き止め、「異界への入り口」を閉ざさなければならない。それは人間達の軍隊には出来ない事だ、との旨だ。
その任務を実行するには、可能な限り、誰にも見つからない必要がある。
敵対する者以外に、近所の人間の目からも逃れなければならない。一般の人間の視野は、「何者か」の視野に成り得るからだ。
そもそも、全身に羽根と鎧を身につけているカーラは、こんな派手なコスチュームを着ている所を、近所の人に見られたくなかった。
ハンナから聞いている事の締めくくりは、「常に貴女の様子を観察するから、危険があったら身を守りなさい。『合法の範囲』では無くともね」と言う事だった。
カーラに出来る護身術は、殴ったり蹴ったりする動作に教化の力を使う事の他に、結界を使う事と、結界に類似する「殻」と「障壁」を使う事くらいだ。
この能力だけで、脳裏に浮かんでいる黒い獣の群れにつかまらないように、異界の入り口のある場所まで、移動しなければならない。
何時ものようにじっくり考えていると、ハンナからの念話による呼びかけがあった。
――カーラ。もうすぐ日の出よ。
――分かった。
そう答えて、カーラはわざわざ玄関に向かった。
――カーラ。
早速、ハンナの呆れた声が届いてくる。
――貴女、飛翔できるようになってるはずよ。空から敵が襲ってくるのに、地面をじっくり歩いて行く気?
確かに地面を歩いてたら、獣達どころか、ご近所さんにも見つからないのは無理だ。
そう考えを変え、玄関の鍵を開けようとした手を引っ込めた。
三階にある自分の部屋へ踵を返して、部屋に入り、上にスライドさせる型の窓を押し開ける。
東向きのその窓から、明けかけている空が見えた。
平常時だったら、その美しさをじっくり眺めていたいと思っただろう。であるが、今は幾つかの難題を抱えている。
――飛翔ってどうやるの?
最初の難題を問いかけると、ハンナは「空中を歩いてみなさい。足元に地面があるって意識しながらね」と答えた。
足元には地面がある、足元には地面がある、と意識しながら、カーラは窓の外に踏み出した。
透明な地面が其処に在るように、カーラの体は空中に両の足で支えられる。
――本当に、地面がある。
カーラは不思議そうに、「何も見えない」場所で浮かんでいる。
歩いてみようかと思ってから、ハッと気づいて、出て来たばかりの開けっ放しの窓を閉めた。
不幸な事に、カーラは飛翔が苦手だった。
素早い飛翔の力は、直感や瞬間的な意識で速やかに発動するのだが、カーラは一々理屈を考えて、その理屈に合ったイメージを固めなければ、神気が使えないようだ。
空中に水のような流れがあると言うイメージを固めて、魔力をじっくり練ってから、ようやく「泳ぐような動作で」飛翔できるようになった。
直線に泳ぐのも大変だが、方向転換するのにも脚をばたつかせ、一々手で空気を掻かないと動けない。
攻撃されたらどうしたら良いかと言ったら、泳ぎながら結界を起動するしかないだろう。
自分に任されているのは、戦闘ではなく隠密行動なのだ、と心の中で言い聞かせ、何度も息を吸って吐いて、すぐに早く成ろうとする鼓動を抑えた。
途中で、通り過ぎるはずのビル街に差し掛かった。「異界の入口」は、もっと先にある。
少しずつ空気の中を泳ぐのにも慣れてきた。その時、ハンナから「隠れて」と指示が来た。
カーラは身体の周りに結界を備えてから、高度を落とし、ビルの屋上に在る出入り口の陰に身を潜めた。
その頭上を、目覚めて間もなくから意識の中にちらついていた、黒い獣達が飛んで行く。
羽の形は蝙蝠に似ている気がするが、普通の蝙蝠より何十倍も大きく、垂れ下がっている腕はゴリラのそれに見えた。
彼等は何処に行こうとしているんだろう?
そんな考えを思い浮かべ、物陰から視線で蝙蝠猿の後を追ってから、カーラは彼等が飛んで来た方向に、また泳ぎ始めた。
カーラが自分の部屋の窓を閉めて行ったのは、不幸中の幸いである。蝙蝠猿達は、真っ直ぐにハンナの屋敷を突き止めると、何とかして屋敷の中に入ろうとした。
窓が開いていても、結界は起動させてあるので、そんなに簡単に侵入されるわけではない。
が、誰かが出入りした様子を知られたら、魔力を追跡されて結界の術が解かれることがある。
蝙蝠猿達は、そんな結界の隙を見つけ出せないまま、屋敷の屋根を覆っている力場の上に登りつく。
結界には霊力を通してあるのだが、蝙蝠猿達はエネルギーに反応しない。外敵には電気ショックのようなものが起こるはずなのに。
カリカリカリカリと、長い爪で、蝙蝠猿達は力場を引っ搔いている。
何をしようとしてるのかしら。
ハンナはそう思いながら、カーラを観察する視野と、屋敷に憑りついた蝙蝠猿を観察する視野を、二つに分けて見つめていた。
夜空の中にあるような、光の燈る暗い部屋で、ユニソームは一番に取って置きたい明識洛を観察している。
上手く逃げているもので、この地方を担っているはずの「主」は、中々見つけ出せない。
何か、強い魔力を使うか、重要なワードを声に出して呟くか、文字でも書いてくれたらすぐさま追跡できるのだが……と思ったが、そう上手くも行きそうにない。
しかしだが、ハンナ・マーヴェルについては情報を掴んでいた。
かつて、二重四方陣を形成しかけた時、アン・セリスティアに与して、場の崩壊を引き起こした者達の一人、フィン・マーヴェルの血縁の者だ。
「血の脈は辿りやすい」と言いながら、ユニソームは蝙蝠猿達に指令を与えている。
ハンナの家の結界の表面を傷つけて、印を刻むように。




