1.戦場・海
サクヤに宛がわれた持ち場は、南東の島を中心にした海の上と成った。東の大陸全土に渡る、二つのデルタが六芒星を描いて重なっている場所の一端だ。
本来その先端は、彼女の養父であるヤイロの居る倭仁洛だったはずだが、術を起動するときに、中央を担う術師によってデルタの形は変形されている。
――一体、何が襲ってくるの?
サクヤが思い浮かべた疑問は、念話になってジークの観察網に届く。
ジークはいつも通りの応答を返そうとしたが、その時にはもうサクヤが滞空している位置の真下に、敵の影があった。
――サクヤ! 四時の方向に飛べ!
サクヤは、知らない誰かの急な通信に反応して、自分を中心にして時計の文字盤が四時を指すであろう方向の、斜め上に飛翔する。
それを追うように、ズバッと言う音を立てて、まだ薄暗い波を割り、蛸のような肢が空中に伸びてきた。
サクヤは身の危険を感じて、更に上空へ移動した。
確実にサクヤの後を追って、長い肢の二本がぬらぬらと彼女を捕まえようとする。その肢は一定の個所まで来ると、リーチが足りないのか、海の中に沈んだ。
――何あれ……。
サクヤがそう思うと、すかさず返事が来る。
――タコの化物だ。この海域でも生存できるみたいだな。
――貴方は誰?
――名前はジーク。アンの助手だ。さぁて、サクヤお嬢ちゃん。バトルの方法は知ってるか?
――私、戦ったことなんてない。
――そうだろうな。まず、避けろ。避けて、切りつけて、逃げる。これを繰り返す。
――切るって、何を使って?
――神気を使え。人間は手に意識を集中しやすい。対象に向かって腕を振る時に、「切れろ」って念じてみな。まずは、海に影を落とすように海面に近づけ。
ジークが説明する通りに、サクヤは恐る恐る海面に近づいた。しかし、一ヶ所に留まっているのは怖い。
どうしようと思って、一定の空中をうろうろしていると、うろうろしていた範囲の真ん中辺りから、またあの肢がズバッと水面を切って現れた。
サクヤは、海面に近づきすぎないように、かと言って上空に逃げすぎないように、ギリギリのラインで避ける。
そして、実際に「切れろ!」と念じながら、蛸の肢に向けて腕を振るった。
サクッと長い肢の一部が割かれ、紫の血液が一気に吹き出す。
それを見たらすぐに、サクヤは空の高い所まで避難する。
傷を負った肢を隠し、水中の蛸は別の肢を伸ばしてくる。先までサクヤが居た辺りで、探るようにぬらぬら動く。
他人事のような声で、ジークの念話が聞こえて来た。
――一本切っても油断するな。あいつ等の肢は切られても再生するんだ。出来る事なら、本体にダメージを与えたい。
――本体は何処にあるの?
――肢の根元だろうな。丸くてでかい頭があるはずだ。まず、肢を何本か切り落とせ。避けて、切って、逃げるを繰り返しながら。
――分かった。
そうやり取りをしてる間に、蛸の肢はどんどんサクヤのほうに近づいてくる。
さっき切った時よりだいぶ距離が遠いと思ったが、近づかれるのが怖いので、サクヤは早々に腕を薙ぎ払い、「切れろ!」と念じる。
――待て、早い!
神気の刃が飛んで行くと同時に、ジークの文句が聞こえてくる。
――だって、待ってられない……!
――上に飛べ! 捕まるぞ!
言われるがままに、サクヤは頭上に飛翔する。
さっき傷つけたはずの長い肢が、つい数秒前までサクヤの居た場所をめがけて、フックをかましてきた。空気を掴んで、悔しげにぬらぬらする。
はるか上空に逃げて、サクヤは薄くなった空気を何度も胸に吸い込む。何より、極度の緊張が敵である。
――良いか、サクヤ。
お説教モードのジークの念話が聞こえてくる。
――闇雲に神気を飛ばしても、居場所を教えるだけだ。ある程度の距離までは攻撃は我慢しろ。避けるって言うのは、そのために必要な技術なんだ。
――そんな技術、練習してない。
――じゃぁ、今学べ。まず、呼吸ができる高度まで下りろ。
反論しても、ジークお兄さんは許容してくれない。
サクヤは恐る恐る飛翔高度を下げ、ぬらぬらしている蛸の肢が、ギリギリ届きそうな位置で滞空する。
蛸の肢は影に気付き、再びサクヤのほうにじりじりと近づいてくる。
ジークの指示が聞こえる。
――俺が「切れ」って言うまで、神気を放つのは我慢しろ。それまで、あの蛸の肢を避け続けろ。予備知識として、蛸は八本しか肢が無い。
――八本も避けなきゃならないの……。
――そう。ほれ、もうすぐ来るぞ。構えろ。
避けて、切って、逃げるを、何とか繰り返しているうちに、サクヤは七本の肢を切り落とした。
残りは一本だ、と思って、逃げずに周囲を見回してしまった。それを待っていたように、死角になる斜め後ろから、長い肢が飛んできた。鞭のような肢が、蠅を打ち落とすかの如くサクヤの体を叩く。
サクヤは反射的に左肘を張った。その手首を中心に、障壁が発生する。水面に突っ込むのかと思ったが、一定の圧のかかった水面は、ほんの少しの弾力だけ残して、ぶつかったものを跳ね上げた。
ジークは望遠ゴーグルの視野を集中して、サクヤの状態を観察する。頭や首の骨に傷はない。少し強く体の左半身を打ち付けただけのようだ。
――切ったら逃げろ!
ジークはお説教を繰り返す。
サクヤはバウンドした状態から、上空に退避した。まともに打ち付けた左腕がジンジンする。
「いたたた……」と呟きながら、サクヤは右手で左腕の肘の辺りを押さえる。神気の流れで治癒が行なわれているが、しばらくは細かく動けそうにない。
――タイムリミットだ。
ジークが告げた。
――練習はおしまい。後は実戦だぞ。
海面が一斉に泡立ち、光を得た植物のように、無数の蛸の肢が海綿から伸びてくる。八本どころじゃない。長い触手だけ数えても、十六本はある。水中に居る蛸は、八匹以上。
――大分、ハードモードだね。
サクヤは何とか強がりを言った。少し笑った声で、ジークの応答が帰ってくる。
――それだけ言えるなら、まだ大丈夫だ。
サクヤは目の前に浮かんで来た蛸達の、頭の大きさを見てゾッとした。一番小さな物でも、気球のバルーンくらいの大きさはある。
そりゃぁ、そんな事になるって話は聞いてたけどさ、と思いながら、念話を返した。
――世界の中で、私が一番不幸って思って良い?
不謹慎な事に、ジークの方からは念話ではなく、通信の術での笑い声が聞こえてきた。




