25.聖なる声
木曜日朝六時三十分
木の幹に腹部まで埋まったターナは、足元から何かのエネルギーが送られて来るのを感じた。それは、果実を作っていたエネルギーと同種のもので、彼女の体を成長させ、同時に巨大化させた。
伸びた体も腕もブクブクと膨れ上がり、肥満体の人間よりも恐ろしい有様を見せる。
手の平も膨張し、指の一本一本も、節目を残して風船のような肉の塊となった。
ターナは「イブ」としての器を手に入れた。
発狂した彼女は叫び続けるだけで、その悲鳴は巨体を手に入れる間に増幅された。
清掃され切れずに残っていた、鴉のような姿の邪霊が、イブの声を聞きつけ、その方向に集まってくる。
イブの体の中に、黒い霊体が次々に憑依する。
熱と痛みを伴うその現象に、イブは恐怖を覚え、彼女の狂気は悪化した。
いつ息継ぎをしているのかも分からない悲鳴が、巨樹の上から町に降り注ぐ。
メルヴィルが、ランタンから取り出した「炎」を矢に変形させ、死霊の樹の上に火矢の雨を降らせた。
それを見て、他の「攻撃の出来る余裕がある清掃員」達も、ランタンの炎から火矢や砲弾を作って樹の上部に撃ち込む。
「ナズナ!」と、モニカ・ロランからの通信が入った。「ワルターからの伝言。アン・セリスティアがエネルギー源の削除に向かった。南地区配置の清掃員は、結界を維持できる人員を残して、アンの援護に回れ。以上!」
最後の言葉が怒鳴り声になったのは、ロランが身を隠している物陰の外で、爆発が起こったからだ。
地下への根を失った死霊の巨樹は、枝を伸ばして、その葉から邪気を吸収し、邪霊を発している。
おかげで、中央地区から南地区への直接の通信が阻害されて、ワルターは辛うじて通信の送れた西地区にいるロランに伝言を頼んだのだ。
身を隠していた店舗の奥の壁から外を見ると、遠くで火柱が上がり、目の前のショーウィンドウに、黒い粘液と、赤い液体を滴らせる、ボロボロになったウルフアイ清掃局のユニフォームがへばりついていた。
「何処も彼処も人手不足」と、ロランは溢して、戦場に躍り出た。
死霊の大樹は、熟れさせていた木の実を滴らせる。その木の実は、着地すると同時に、節足動物物に近い姿を取り、周りを邪気で汚染し、建造物や生き物を壊し始めた。
その現象は枝の届いてる範囲全てで起こっており、町はまた喧騒を取り戻してしまっていた。
空中を飛翔して、アンは死霊の樹木の天辺の、梢の中に居る巨大な体を持った女性を見た。彼女の原型は人間だ。高濃度の邪気を体内に備えており、それによって急速に「成長」したらしい。
外見的特徴はエムによく似ている。双子の兄妹と言われても分からないくらい。
しかし、数秒前まで原形を保っていた頭部も、邪気で膨れ上がった肉に侵食されて行く。
エムの器を使って作られた何かなのだろうか……。そう思って、成長した身体を得たエムが「アダム」と名乗っていた事を思い出した。
だとしたら、この女性が、アダムの細胞で作られた「イブ」なのか。アダムからエムを助けた時のような方法で、彼女の器を救うことは出来ないか。
アンが手立てを考えているうちにも、死霊の樹の一部となったイブは、今も邪霊を集め、体に憑依させている。それが彼女の望んだ事ではないとしても。
今は考えてる場合じゃない。
そう決断し、自分の周りに結界を仕込むと、箒を翻して、イブに急接近した。
悲鳴を上げながら、イブは巨木の枝ほどはある腕を振り回す。アンは身をかわした。もう、イブにとっては近づいてくるもの全てが「害を与えるもの」に思えているのだろう。
アンの存在も「邪気を摂取する者達」には害はある。そのエネルギーを絶たせて、唯の子供に戻そうとしているのだから。
アンは、イブの腕が届かない範囲で滞空し、箒の先に掛けていたランタンに手をかざした。
どの程度削れるかと危ぶみながら、イブの周りに殻を展開し、その内部に炎を送り込む。
イブは更なる悲鳴を上げた。邪気は殻に遮られて、新しい邪霊は集まって来れない。巨大化したイブの体は、表皮を焼かれ、肉を焼かれ、骨を焼かれ、崩れて行く。
アンの術を阻害しようと、鴉の姿をした邪霊達が飛びかかってきた。アンは箒を操作して避けるが、邪霊の数が多い。
鴉達は、アンを追い立て、結界の効果が届かなくなる場所に連れて行こうとする。
魔力の放出が死者の樹に届かなくなりそうになった時、邪霊達は地上から射られた火矢に次々に打ち取られた。上空での事情を知った清掃員達が、援護してくれたのだ。
アンは不安定になりかけた術を解かないまま、イブに再び接近した。イブを包んでいる殻が硬化され、火力が強くなる。
イブの身を包んでいた邪気を焼き尽くすと、幹の天辺が凹んだ内部に、三歳くらいにしか見えない女の子がうずくまっていた。
アンはその少女を助け出そうと近づいたが、死霊の木は意思を持って梢を動かし、アンの進行方向を妨げた。
視界の端で、幹の天辺の穴が塞がり、女の子がその内部に閉じ込められるのを見た。
怖いよぅ。怖いよぅ。と、女の子は泣き続けていた。突然命を与えられて、突然知識を与えられて、体を急速に成長させるように促され、自分を守ってくれていると思っていた者達を瞬く間に失った。
女の子の知識の中には、「母」と言う者も、「父」と言う者も、「神」と言う者も居なかった。だから、誰に頼れば良いのかも、何に祈れば良いのかもわからなかった。
夫と言う者になるはずだったアダムは、女の子を守れる力を失ってしまったらしい。それどころか、木の幹に女の子を括りつけて、身動きすら取れなくした。
自分に知識を与えてくれたリヤと言う半蛇の女性は、女の子を見捨てて何処かに去ってしまった。アダムが居なくなったのなら、貴女は不完全だ、面倒を看ることは出来ないと言って。
誰かが居なきゃ、私は不完全なの? 何故? 子供が産めないから? そんな事だけが、私の価値なの?
怯えて泣き叫んでいた声は、誰にも届かなかった。悪質なものばかりが寄り集まってきて、女の子の体を侵食し、化物に作り替えようとした。
助けてって言ったのに、誰も助けてなんてくれなかった。叫ぶだけ無駄なんだ。悲鳴なんて、涙なんて、無駄なんだ。みんな、私を壊したいんだ。
女の子は、死霊の木の幹の内側で、考え続けた。
壊されるくらいなら、壊してしまえ。
その心は呪いを生み、その意思は死霊の樹の隅々まで行き渡った。
女の子の器と意思は、周りを囲んでいた粘液質な泥のような物質と、融合して行った。
邪霊の巨樹全体から、はじけるように高濃度の邪気が放出された。枝に実っていた赤い実が、ぼたぼたと地面に落ちる。
虫型の邪霊を駆除していた清掃員達は、とんとんと、確かに人間の手に肩を叩かれた。
振り返った彼等は、泥で出来た、体毛のない人間の形をした者を見上げる。その赤い瞳から、射るような視線を受けた。
その視線と目の合った者達は、強い邪気の侵食を受け、昏倒する。
赤い瞳を光らせる者達は、巨樹の実から、次々に増殖するように生まれて来る。
結界を作っていた術師達も、数名を残して意識を失い、術が消滅した。
死霊の巨樹は根を捕らえるものから解放され、自由を得た。




