23.真っ暗闇
木曜日朝四時三十分
一時間の眠りから覚め、「祓い」が効いている間に身支度をして、アンはニュースブックを開いた。「アン・セリスティアへ。南地区、準備完了。連絡を待つ」と記されている。
ランスロットは複雑な術を組んでいる所なので、こんな事を書いている暇はないだろう。
恐らく、マーヴェルかワルターが記載したのだろうと見当をつけ、確認した。
マーヴェルは自分ではないと言う。そこで、マーヴェルに通信の術を起動してもらい、ワルターにつないだ。
「こちら、ノヴァ・ワルター」と、応答をもらう。
「アン・セリスティアです。ワルターさん。南地区での準備と言うのは?」
そう問いかけると、「ニュースブックの通り、君の残した指示に従って、南地区で死霊の樹木を捕らえる布陣を敷いている。君には北地区で樹木を追い立てる役を頼みたい。
それから、『アダム』と名乗る高位霊体を纏った者が、町の各所に出現している。清掃局員の中にも、意識を侵食された者がいる。ユニフォームを着ているからと言って、仲間だと思って近づいたりしないように」とのことだ。
「了解。確実にアダムが術を阻害しようとするので、アダムを排除してから術を起動します」と、アンは返す。
「アダムの排除」と、ワルターは復唱し、聞き返す。「成功確率は?」
「高いとは言えませんが、決して不可能な事ではありません」と、アンは断言した。
木曜日朝四時四十五分
「祓い」の効果が消え、アンの体に魔力が戻った。ランスロットのほうも「良い因子が出来た」と言う。
アンは慌ただしく箒を手に取ると、補給所の出入り口に向かった。
「アン」と、マーヴェルはその背に声をかける。「生きて帰って来いよ」
アンはマーヴェルを振り返り、口元に笑みを浮かべ、元気よく「はい!」と答えた。
「声から魔力を消せ」と、マーヴェルはいつもの注意を口にした。
商業施設の階段を上れる場所まで上って、割れた窓から早朝の空に飛び立った。
アンのポケットでは、術を備えているランスロットの霊体が、温く灯っている。
アンが東地区の空の高み行くと、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。
雲の上から、「みーつけた」と言う声が聞こえてくる。それは小さな呟きのような声だったが、言霊の魔力を持ってアンの耳に届いた。
「エム……。ううん。アダムだったね」と、アンは声のほうを見上げて、声をかける。アダムと同じく、言葉に魔力を込めて。
アダムは白い雲の上から、ゆっくりと降下してきた。
「もう、貴女が何処に逃げ込むのかは把握した。あの建物の三階だ。先に潰しておこうかな」
「それは私が許さない」と、アンはアダムを睨んで言う。「私達があなた達の事を、なんにも知らないと思ってる?」
「へぇ。何か知ってるんだ。僕にも教えてよ」と、アダムは揶揄う。
「言う必要はない。アダム、君も知っていることだ」
そう言って、アンは片手をアダムのほうに伸ばした。手の平に気流の刃を作り、連続的に放つ。
「おっと。危ない」と言い、アダムは身軽にそれを避ける。刃を避けながら、「お返し」と述べて、彼は指先から轟音を鳴らす雷撃を放つ。
アンは箒を操って地面の方向に逃げた。
アンのいる位置より高い避雷針に、雷撃は吸い込まれる。
「逃がさないよ」と呟き、アダムもアンの背に向かって飛翔する。
アダムが雲から離れるのを確認してから、アンは全速力で間合いを取り、鼓膜が痛くなるほどの勢いで急上昇した。
アダムは、面白そうにその後を付いてくる。
先に上空に到達したアンは、片手を雲に向けた。
降り始めていた雨が、アダムに向けて弾丸のように降り注いだ。通常の人間だったら、皮膚が裂けているくらいの勢いの、雨の弾丸。
「アハハハ!」と、アダムは笑った。「凄いね。かなり強烈なシャワーだ」
アダムがそれに気を取られているうちに、ランスロットが術を放った。一陣の風のように、その術はアダムを包む。
アダムは笑い声を消した。
ゆっくりと、片手を持ち上げる。すぐ目の前にあるはずの手が、見えない。
視界が瞬く間に暗くなり、体に満ちていた力が吸い取られるように減少して行く。
動揺は口に出来なかった。視力を奪われたアダムは、魔力的感覚で周りの様子を探ろうとした。が、それより早く、攻撃を防いでいた翼と衣が劣化し、持ち上げていたアダムの片手を、雨の弾丸が傷つけた。
なんだ? と、心の中で思った。頭、顔、肩、腕。雨が強く叩きつける部分から、傷を受ける痛みが体に響いてくる。
異常事態だ。退避を。そう悟って、上空に飛翔したが、雲の上に移動しても、雨の弾丸はしつこく後をついてくる。視界は相変わらず真っ暗だ。
視覚だけではなく、聴覚や嗅覚も触覚も、どんどん麻痺して行く。痛覚だけが生き続け、エムは歯を食いしばった。身体を回復させる術を使おうとしても、効果が得られない。
自力では、どうにも出来ない状況に陥り、アダムは初めて「恐怖からの悲鳴」を上げた。
その時、彼の体の中は、アンの魔力構造から作られた「朱緋眼保有者崩壊因子」が、体と魔力を侵食していた。ウィルスの増殖は異常に早く、魔力構造を変質させ、コントロールを奪う。
砕けつつあるアダムの体から、炎と電光と黒い煙が暴れ出す。それは操る力を失った魔力の暴発のようなものだった。
凍った雨に追い立てられ、アダムは雲の上から、更に上まで飛んだ。次第に、吸い込む酸素も邪気も失い、意識は遠くなり、成長していた体は縮小されて行く。
翼と衣が、硝子細工のように割れた。そして、五歳の子供の形に戻った体は、ゆっくりと下降し始めた。
全部が失われる。
エムは思った。
世界が壊れる。優しくて暖かい世界が。リヤとターナはがっかりするだろう。僕に失望して、きっと見捨ててしまうんだ。
目を閉じて、体が重力で落下するに任せた。地面に叩きつけられて、壊れてしまえたら良いと思った。
雲を通り抜け、頭を下にして落下してきた少年の体を、誰かがふわりと受け止めた。
ああ、貴女はやっぱり僕の邪魔をする。
そう思ったが、エムにはもう、その人のする事を止める力も残っていない。お腹の中に在ったエネルギーはすっかりなくなってしまったし、体の外に纏っていたエネルギーも失われた。
希望が無くなったのに、死ぬ事も許されたない。
だけどその人は、「エム」と、優しく声をかけてきた。「よく、闘ってたね」と言って、エムの背を撫でる。
闘った? 何と? と、エムは考えた。なんにも達成できないうちに、唯の夢を見る子供に戻ってしまったのに。
エムは目を閉じた。真っ暗闇は、真っ暗闇のままで良いと思った。
エム・カルバンの体を抱きしめて、アンは補給所に帰った。マーヴェルはエムの体から邪気が無くなっていることを確認し、子供の体に合う服を用意して着付けた。
「結界は必要あるか?」と、マーヴェルはアンに聞いた。
「『状態回復』で十分。彼個人の魂の麻痺は治ってるから。でも、補給所からは出さないほうが良いかも。ドアにだけ『限定結界』をかけておいて」と、アンはテキパキと説明した。




