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ストリングトーンの虹へ向けて  作者: 夜霧ランプ
第六章~哲学者のうたた寝~
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8.懐かしい町角で

 猫はすっかりアイドルになった。

 元々、器量の良い猫であったが、仕草が人間じみていて、なんだか物分かりも良い猫は、最初に呼ばれた「ミュウミュウ」と言う名前が固定名になり、看護師達の休憩室が居室になった。

 後脚の片方にギプスをした状態で。

 その猫に憑依して居たアンは、こっそり猫の体から抜け出し、出入りしている人間達に紛れて、自分の体の見舞いに行っていた。

 弟と鉢合わせない時を伺って病室を突き止めたが、病室から何か良い匂いがする。

 中に入ってみると、少し痩せた自分の体が眠っていた。手の甲から、白檀と言う香木の香りがしている。触れてみると、練り香水が塗られている。ついさっきまで、弟が来ていたらしい。

 霊体が体の中に居ないのに、眠っている体はうっすらと微笑んでいた。脳と体に残っている習慣と反射が、まだ活きていると言う事だろう。

「ごめんね。ずっと放っておいて」と、アンは声に出して言い、自分の体の額を撫でた。数日間の魔力の記憶が残っていた。

 弟が、手の甲にハンドクリームや練り香水を塗ってくれるようになったのは、つい数週間前からのようだ。眠っている体の額に、時々チューをして行くのは変わらない。

 こう言うのを、シスターコンプレックスって言うんですかね? と、アンは首を傾げた。

 朱緋眼を譲ってしまった以上、ガルムに恋をしろとか妻を娶れと言うのは、無理な話だ。

 国に管理されている、朱緋眼保有者達の間の臨床実験の結果がある。朱緋眼保有者が一般人と子を成そうとした場合、多くは契りを交わした瞬間、パートナーが死亡する。

 朱緋眼保有者同士のペアであった場合は? 女性の朱緋眼保有者と一般人男性のペアであった場合は? と、実験は繰り返されたが、朱緋眼の呪いは「子を成す」と言う可能性を摘み取るものだった。

 それは朱緋眼保有者同士のペアであっても、お互いを呪い殺す要因になってしまった。彼等が互いを恨んでいたと言う可能性は無きにしも非ずだが、人間同士を番えると言うのはマウスのようにはいかない。

 アンは弟を生き延びさせるために魔力を譲った。しかし、いずれ体に戻ったら、その莫大な魔力は「返却」してもらうつもりでいる。その時の術が上手く行くかどうかは分からないが。

 ちょっと気付いて、自分の体の瞼を押し開けてみた。

 斜め上のほうに引っ張り上げられている、動かない瞳の色は透明な青だった。


 意識の町の中を散策する。かつては、辺り一面に魔力を供給する塔を建設するまでに栄えた町も、すっかり崩壊して、真っ平らな地面が続いているだけの空間だ。

 アンは歩を進めながら、以前そこにあった町の繁栄と、消えてしまった人達を思い出した。

 パン屋のアントーニオさんの作る塩パンに、上等なバターを合わせて提供していた、カフェ・メロゥ。塩バターパンにぴったりの、熱々のストレートコーヒーがとても美味しかった。

 カフェ・メロゥは、珍しく電話(テレフォン)を置いていて、魔力を操れないお客さん達も、気軽に電話をしにカフェに来ていた。

 カフェで電話をして、待ち合わせ時間を決めて、お茶を飲んで、それからデートへなんて言うカップルが出来るのを、モーリスとジェシカの夫妻は何人見送ってきたんだろう。

 バーバー・ミケランジェロの名店主、リッツさんはハサミの魔術師。相棒であり奥さんであるチヨカさんが、東洋風の巻き髪の方法を取り入れていた。

 何時も何故か五分早い小学校の鐘が鳴ると、鞄を持った子供達が校庭から通りに飛び出してくる。おかげで、小学校の前の交差点を通る馬車は、「魔の十六時五十五分」を怖がっていたっけ。

 路面電車のデザインが、ゴート式になったのは何時からだろう。なんで髑髏(どくろ)のマークと黒檀色なんて流行るようになったんだろう。もっと昔は緑と黄色のオシャレな路面電車だったのに。

 みんな新しい建物を建てるのに、映画館だけは何時までも建て直さなかったな。廃墟風じゃなくて、ほとんど廃墟の映画館だったのだよね。

 何時も映写フィルムを持って来てくれていた、配給会社のオータムシティフィルムから来てた役員さんは誰だっけ。確か、コッホさんだったか、ゴッホさん?いや、ホッホさん?

 そんな風に考えていると、「ホッドですよ」と言う、アン以外の誰かの声が聞こえた。「お久しぶりです。アン」

 アンは、表情を失くし、茶色の髪を整髪料で整えてあるスーツ姿の男を見つめ返した。

「貴方……生きて……」と、アンは言いかけた。

「死んでます」と、ホッド氏は、板に付いた営業スマイルと、弁舌明るい営業口調で答える。「大抵、貴女の意識の町に出入りできるのは、『死した者達』だけですから」

「でも、もう、町は無くなっているし……。何故、貴方が?」と、アンは山ほどの聞きたい事を胸に抑えて、ホッド氏にも答えられる所だけ問う。

「貴女の意識が閉ざされたことを、知らせてくれた人が居るんです」

 ホッド氏は、とても嬉しい事を告げられたような人がそうするように、両手を広げて見せた。

「名前は伝えないでくれと言って居ましたが、そうですね。私がヒントをあげられるなら、褐色の肌と黒い瞳をした青年でした。貴女と年も近い人でしょう。

 彼の呼びかけで、今まで貴女の町に出入りしていた者達は、復興の機会を探していたんです。生憎、町の住民達は救えませんでしたが、アン、貴女を救うために」

「でも、私はまだ……」

「やるべきことが残っているのでしょう?」と、ホッド氏は言う。「それをやり遂げたら、また此処に来て下さい。留守の間の事は、心配せずに」

 アンは、耳がじわっと熱くなるのを感じた。恥ずかしいわけではない。だけど、顔がどんどん赤らんできて、目に涙が滲む。今にも子供のように泣き出しそうだ。

 アンは歯を食いしばり、深く息を吸って吐くと、ホッド氏に向けて片手を差し出した。「仕事は、きっちり終わらせてきます。それまで、元気で」

 ホッド氏は、丈夫な手で力強くアンの手を握り返すと、「それでこそ、アン・セリスティアです」と述べ、しっかりと二回シェイクハンドをして、手を離した。


 意識が霊体に戻る。アンは自分の生身の体から一歩離れ、「褐色の肌と黒い瞳の青年」を思い出した。

 まさか、そんなはずはないだろう、と打ち消そうとしたが、アンの記憶の中で、かつての戦友の事が思い浮かぶ。

 もし彼が、あの時の――約束とも言えない――口約束を覚えていたのだとしたら、私を忘れずにいてくれたのだとしたら、そして、彼が、彼等が、私を救おうとしてくれているなら。

 私はいつか、またあの町に戻るだろう。そして、もう一度、途切れてしまった道の続きを、歩もう。

 そう決意し、アンは「ミュウミュウ」が待っている看護室へと戻った。

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