7.アンちゃん猫になる
強制的に霊体を移動させられたアンは、流動酔いで悲鳴を上げそうになった。
そして、体に憑依した途端、「なーん!」と、猫のような声を上げた。なんだこの声、と思ってよく体を見ると、猫だ。
手足の先が靴下を履いたように白く、腕や腹や尻尾は黒い。顔は見えないので、どんな顔の猫かは分からないが、悪魔の手先として処分されそうな様子ではない。
え? 私、体に戻るんだったよねぇ? 話の流れ的に。
そう思ってみたが、何度見ても見えるのは猫の体だ。
人間の体が猫のぬいぐるみを着ているわけではないのは、感覚で分かる。足裏の肉球から煉瓦塀のざらつきが分かる事で分かる。
空を見上げ、辺りを見回し、大通りのほうに歩いてみると、何処かで見覚えがある。確か自分の体が眠ってる病院に近い場所だ。
そこで、この猫の体を借りた状態で、自分の体がある場所に行ってみようと思いついた。
ガルム君は、軍病院から一般の病院に移してくれたんだよな。お金も手間もかかるだろうに、ありがたい弟君だよ。
そんな事を考えながら、恐らく赤ん坊の頃はやった事があるであろう、四足歩行をして町をゆっくり進む。
猫と言う物は、ジャンプ能力に長けていて、割と身の丈より高い所まで跳ね上がる事が出来るはずである。
しかし、四つ足を上手く使って跳ね上がると言う動作を、ついさっきまで人間の形の霊体を操っていた身で、すぐさま出来るものだろうか?
そう考えて、まず、移動していると見せかけてちょっとだけ「跳ねる」と言う動作をやってみた。道中の進行方向の塀に向かって、前足で地面を蹴り、体をしならせると同時に後足で地面を蹴る。
猫の体は、吸い上げられるように塀の上に着地した。何なら、目測より十センチほど多めに跳ねてしまった。
普通の猫だったら、そんな体力を使う失敗はしないだろう。しかし、猫だからこそ、周りの人間には不審がられていないようだ。
何回か更に高い塀に飛び乗り、その上を歩いて行って思った。これ、下りるのどうしよう……と。
塀から下りると言うか、ほぼ落ちた拍子に後足を挫いたが、それ以外は無事な状態で、なんとかかんとか、弟が時々見舞いに来る病院まで辿り着けた。
しかし、易々と外猫の侵入を許してくれそうな、警備の緩そうな病院じゃない。
完全看護制と言う、眠っている患者に対しても「真っ当に生活している人」みたいに見えるように細かく面倒を看てくれる、意欲的な看護師さん達が働いている場所である。
それに付け加え、出入り口の前にはポリスマンのように、きりっとした表情の警備員達。
何故、何故、看護師さん達が酒飲んで酔っ払って、仕事サボってるような病院を選んでくれなかったんだ! と、この時だけは弟の思いやりを恨んだ。
タクシーが往復している駐車場をフラフラするわけにも行かず、何となく人間のように正面玄関の前に向かった。脚一本をギクシャクさせながら。
「猫だ」と、表玄関の警備員が気づいた。「怪我してる」と言う事も。
「ミュウミュウ。ここは人間の病院だぜ」と、もう一人の、気の良さそうな警備員が屈みこみ、喉を人差し指で掻いてくれる。
確かに私はちょっと足を挫いているけど、そう言うつもりで病院に来たわけでは……。あ、首気持ち好い、とか思ってると、自然に喉が鳴った。
「猫を診てくれる動物病院なんて、近くにあるか?」
「馬とか牛の獣医は知ってるけど。それもだいぶ郊外の方の医者だ」
「どうするかな。こいつの脚、だいぶ腫れてるし」
「中に連れて行って聞いてみよう。しばらく外すよ」
「オーケー」
そう警備員達はやり取りをして、猫好きらしい警備員の一方が、アンの納まっている猫を抱え上げて、院内に入って行った。
警備員が理由を話し、丁度手の空いていた看護師数名が、猫の世話をしてくれる事になった。
アンは挫いただけだと思っていたが、確かに下手な角度で地面に打ち付けた後脚はパンパンに腫れていて、診察台に乗せられた猫の中で、アンは「これでよく歩けたな……。猫の体って強いんだな」等と思っていた。
病院に居る猫が浮かべるにしては思慮深い顔をしていた猫に、やはり猫好きらしい看護師は「患者さん。ちょっと待ってて下さい。今、ひんやりするのを取ってきますから」と言って、冷蔵庫のほうに向かった。
逃げるチャンスかと思ったが、見回せば、他の看護師達もニコニコしながらこっちを見ている。
「ミュウミュウ。身体に土がついているから、少し拭きますよ?」と言って、暖かい湯で湿らせたタオルを持った看護師が、猫の体をごしごし磨き始める。
なんだかすいませんね……と思っていたら、また喉がゴロゴロ言い始めた。
「気持ち好い? 好いねぇ」と言って、看護師は楽しそうだ。
しかし、問題の後脚に触れられた時は、鋭い痛みが走って、「ギャ!」と声を上げてしまった。猫の声帯だが、ちゃんと「ギャ」と言いたいときは「ギャ」と発音できる物だ。
「ああ。痛かった?」と言って、体を拭いてくれていた看護師は、後脚をよく見て気づく。「これ、やっぱりおかしいよ。骨に皹が入ってるかも」
「レントゲン室は空いてる?」
「空いてても、大人しくしててくれるかな」
「だいぶ静かな子だから、ちょっと試してみよう。この大きさなら、部分レントゲンで充分だし」
そんな風に看護師達はやり取りをして、猫は、体の一部のレントゲンを撮るための部屋に運ばれた。




