2.セントエルモの火
少女は、黒い髪と褐色の肌と、青い瞳を持っている。肌と髪の色は土着の血、瞳の色だけは、北の土地から移動してきた民族の血の影響だと言う。
だが、それは彼女が「引っ越す前」の知識だ。今の彼女は、大陸を離れて、大陸のちょっと西にある島国に住んでいる。
島国と言っても、大きな河と間違えそうなくらいしか大陸とは離れておらず、その大きな河のような海を挟んだ隣の国とは、国家間の戦争や喧嘩が絶えないと言われている。
少女は、戦争や喧嘩には興味はない。自分の周りでそれが起こらないように、逃げるだけだ。殴り合いをしている人達からは、離れる事。母親が日頃言っていた事で、それは覚えていた。
その他にも、幾つか憶えている「躾」があった。
知らない場所、危険な所に近づいたり、リスクのある事はしてはいけない事。知らない大人の男の人が近づいて来たら、全速力で逃げる事。知らない人を信用してはいけない事。
知らない土地に行かない事。知らない言葉を話す人には近づかない事。知らない家に入らない事。知らない人に付いて行かない事。
その躾の大部分は、親戚の家々を回る間に破られる事と成った。知らない事は、いつの間にか知ってる事になり、知ってる事になった頃に、別の知らない場所に行く事になる。
十二歳を迎えた少女は、知らない親戚の人と、知らない鋼鉄の船に乗って、知らない海峡を渡って、知らない国に行くことになった。
鉄の船のデッキで、柵越しに、少女は離れて行く大陸を眺めていた。
「カーラ」と、女性の声が呼び掛けてくる。
そちらを見ると、オレンジ色に近い金色の髪をした、青い目の女性が歩いてくる所だった。父方のほうの親戚だと言う、まだ年若く「おばさん」と呼んで良いかも分からない女性だ。
その肌は、うっすらと日に焼けている程度の色味を持っている他は、ほぼ「白い人達」に近かった。
女性はカーラの隣に立ち、少女と同じように去って行く陸を見る。それから傍らの少女を見て、問う。
「クオリムファルンに来るのは、初めて?」
「うん」とだけ、カーラは答えた。
親戚の居る土地の、何処に行っても「初めて訪れた場所」ではあったが、国を渡って大陸を離れるほど遠くに来るのは、確かに初めてだ。
「カーラは、電気の文化圏に居たでしょ?」と、女性は不思議な事を聞いてくる。
カーラは、問いの意図は分からないまま、素直に頷いた。
女性は、カーラが頷くをの確認してから、続ける。
「クオリムファルンや、その周りの国は、ちょっと違う文化圏なの。電気の文化も、少しは導入されてるけど、そうだな……。カーラ、よく見て」
そう言って、カーラより頭二つ分は背の高い女性は、少女の背丈に合うように屈みこんで、その目の前に手を持ってくる。
ふわりと、女性の指先から、熱の無い炎のような揺らぎが上がった。揺らぎは、一瞬だけ青緑色に染まり、ミルクティーに入れるスパイスのような、刺激的な香りを漂わせて消えた。
セントエルモの火と言う現象を、カーラは思い出した。しかし、プラズマ体の現象から、香りがするなんて、聞いた事はない。
「今の、分かった?」と、女性は不思議な光り方をする瞳を、カーラに向けてくる。その瞳の光は、彼女が瞬きをすると同時に納まった。
カーラは、黙ったまま頷いた。女性も頷き返し、口の前に人差し指を立てる。そして囁く。
「そう。言葉にはしない。それが、この力を使うために大事な事」と、女性は説く。「貴女も、練習すれば同じ力を使えるようになるわ。今から到着する文化圏では、日常の一部でこの力が使われてる」
そう言ってから、女性はかがめていた背を伸ばした。
「それは……」と言いかけて、カーラは言葉にしちゃならないんだったと気づいた。それで、「便利なの?」と、聞きたかったことを変えた。
「ええ。とっても大事な力なの。でも、その事をお外でお喋りしちゃダメ。私との、一つ目の約束ね?」
「お姉さん。私、いつか、お姉さんとも離れるんでしょ?」と、少女は小さな声で言う。「その時の後も、約束は続くの?」
「うーん……。私、なるべくカーラとは、長く家族で居たいと思ってるの」
そう女性は言う。
「だから、約束は、ずっと守ってほしいな。もし、私が居なくなっても。きっと、カーラが生きて行くために、必要な事になるから」
「私、お母さんの言ってた事、たくさん破ったよ」と、カーラは残念そうにつぶやく。「だけど、そうしないと、生きて行けないし……」
「貴女のママは、どんな事を言ってたの?」
「知らない所に行かないとか、知らない人に付いて行かないとか……」
カーラの言葉を聞いて、女性は困ったように笑った。あの時の、水巻鳥のおじいさんのように。
「確かに、それを守ってたら、親戚中を渡り歩くなんてできないね」と言ってから、女性はカーラの小さな肩に手を掛ける。
女性は、もう一度背をかがめて、少女に目を合わせる。
「貴女のママの言ってたことは、『小さい貴女』が守らなきゃならない事だったの。貴女はもう十二歳でしょ? この力を使う者としては、十分な大人。
だから、私との約束は、大人として守らなきゃならない事なの。私が『約束』を言った時は、それを大人として生きている間、ずっと守る事。それが、二つ目の約束ね?」
「約束を……」と言いかけて、カーラは自分の言葉が纏まらなかった。約束を守る事を約束する事。それは、一番大事な事だろう。言いかけた問いを打ち消して、「うん」とだけ頷いた。
「最初は難しいと思う」と、女性は言い出す。「だけど、知らないことが知ってることになるのは、あっと言う間でしょ?」
そう言われて、カーラは今までの経験から、もう一度、「うん」と答えた。
遠くなって行く大陸の反対には、もう、目指す島国が見えている。クオリムファルン。その国が、いつか自分の中で「故郷」になるだろうと、少女は予感していた。




