1.夏空の呼び声
六月の昼の風は、こんなに冷たいものだっただろうか。
今年で十五歳になる少女は、そう考えた。
ブランコに揺られている自分の影が、何時もの夏より薄いような気がする。
クオリムファルンで、六月と言えば夏の始めだ。日射しがどんどん強くなり、生命力に満ちた植物達が繁茂し、鳥や動物達は子を残す。世界に光が満ちて、この季節が終わらなければ良いのに、なんて思わせる。
そのはずなのに。
その年の空の青は、やけに寒々しくて、風が冷たくて、何時もだったら、とっくに夏用のシャツに着替えている季節を通り過ぎたまま、まだ春の上着を手放せずにいた。
「カーラ。ハチドリ機のネジを巻いて」と、誰かが呼び掛けてくる。
しかし、その声の主は姿を持たない。
カーラは姿の無い声に、どう答えれば良いかは分かっている。「今は持ってないから」と、心の中で答えるのだ。
「つまんないの」と声は言って、風の一陣になって消えてしまう。
ハチドリ機は、七歳だったカーラが住んでいた町の、小さな発明家だった「水巻鳥のおじいさん」が作ったカラクリ細工だ。
カーラが七歳になる誕生日に、七十歳の誕生日を迎えたおじいさんは、カーラに自分の発明品を幾つか見せてくれた。その中の一つにあったのが、ハチドリ機だ。
空中に浮いたハチドリの姿をしていて、背中のネジを巻くと、本物のハチドリのように羽を細かく動かし、目の前にある花のカラクリの蜜を、嘴で吸うようなしぐさをするのだ。
「可愛い! ほしいな」と、ハチドリ機を見せてもらったカーラは声を上げた。おじいさんは少し困ったように笑んで、「これは、僕が僕のために作った友達なんだが」と言ってから、ハチドリ機の足を改造した。
カーラの指にとまるように、足の形を変えられたハチドリ機は、背中のネジを巻くと、女の子の頬に嘴を近づけて、キスをするような仕草をした。
「ありがとう」と言って、家にハチドリ機を連れて帰ったカーラは、そのカラクリ細工を妹に自慢した。五歳だった妹は、「ずるい。わたしも!」と言い出した。
ひとつしかないカラクリを、もらったその日に妹にあげるのは嫌だったので、「指に乗せるだけだよ?」と言って、カーラは妹の指にハチドリ機をとまらせた。
その時、家の奥の方から、母親がカーラの手伝いを求めてきた。それに返事を返して、母親の手伝いをしてから妹の所に戻ると、妹は片目から出血して倒れていた。
妹の人差し指にとまらせておいたハチドリ機は、妹が倒れた時に、手の下敷きになって潰れてしまっていた。
その鋭い嘴の先に、血液が付いていたような記憶がある。
妹はピクリとも動かない。
「ネィア?」と声をかけたが、返事をしない。
事態の早急性は思いつかなかった。妹は片目を真っ赤にして、もう片目を開けている。起きているはずなのに、全然返事をしない。
妹の目の周りから広がった血液は、髪の毛の間から滲みだした。五歳の子供の頭の周りから、赤いものが広がって行く。
ぼんやりとそれを見つめていたカーラの後ろから、母親が呼び掛けて来た。母親はうるさく呼びつけながらこちらに来る。
カーラは、とっさにハチドリ機を妹の指から外し、ポケットに隠した。
「返事くらいしなさい」と言おうとして、母親は小さいほうの娘を見つけた。
正確には、ショック死したばかりの屍を見つけ、母親は悲鳴を上げた。倒れているほうの娘を、抱え起こすと、カーラに「パパを呼んで!」と声をかけた。
カーラは訳が分からなくて、「なんで?」と聞いた。
お母さんは、毎日お父さんの文句ばっかり言って、すごく大っ嫌いなんだって事ばかり……直接そうは言わないけど、そう分る事をずっと唱えていたのに、なんで急にお父さんを呼ぶんだろう。
カーラはそう思ったのだ。
母親は、一大事を認識していない娘に業を煮やして、目から流血しているほうの娘を抱えたまま、夫が眠って居るはずの寝室へと、姿を消した。
寝ぼけている夫を叩き起こし、車を出させ、母親は妹を抱きしめたまま、「親子三人」は車に乗って病院に向かったらしい。
らしいと言うのは、その先に病院があるはずの方角に向かって走っていた車は、事故を起こして「親子三人」は全員死亡したからだ。
カーラは、その事を親戚のおばさんから聞かされ、色んな親戚の家を行ったり来たりしながら暮らすことになった。
水巻鳥のおじいさんに、ハチドリ機を直してもらう事も考えた。だけど、「おじいさんがおじいさんのために作った友達」を、受け取ったその日のうちに「殺してしまった」と打ち明けるのは悲しかった。
だから、ずっと黙っていた。
おじいさんの記憶の中では、ハチドリ機は綺麗でかわいいままカーラの手元にあって、カーラはその友達と仲良く暮らしていて、とても幸せな気分でいるに違いない、と思われているだろう。
その期待を裏切ってしまうのは、悲しかった。
だから、カーラは黙ったまま、親戚の家で、壊れたハチドリ機を「匿って」いた。
このハチドリ機が、妹の片目を壊した原因かもしれないと考えた事はあったが、ハチドリ機は嘴を定期的に揺すって、「キス」の仕草をするだけだ。
その「キス」を目にさせたのは、その時にハチドリ機を持っていた妹だ。妹が片目を壊した原因は、妹本人にある。
そう思うようになってから、カーラの周りで、あの声がするようになった。
「カーラ。ハチドリ機のネジを巻いて」
その度に、カーラは辺りを見回して、返事をするのは用心した。ハチドリ機が、事故の責任を押し付けられるのは、可哀想だ。
それに、ハチドリ機が死んだ事が知られたら、水巻鳥のおじいさんを悲しませる。
そう考えてから、「今は持ってない」と答える方法を思いついた。
その答えを聞くと、姿の無い声は、不服そうな呟きを残しながら、消えてしまうのだ。
そんな事を、もう八年も続けている。
そうして、多雨の時期を経て、ようやく来た夏は、冷え冷えとした風の吹く、生きている事を楽しいと思えないような、彩度ばかりが目に痛い季節だった。




