29.宴の後
一週間ほど、サブターナは城に入り浸った。いっぱい食べていっぱい飲んで、柔らかいソファで毛布をかけてぐっすり眠った。
同じくソファで眠ってたサリアには内緒で「添い寝してもらってる気分」を味わってみた事もある。八歳の女の子は、今まで怖くてやったことの無かった「贅沢とワガママ」を堪能した。
お湯をたっぷり使った湯船で、泡の立つ入浴剤にまみれてみたり、一ヶ月弱の野外生活でカチカチに成った皮膚の垢を落として、保湿クリームを丹念に塗り込んだり、サリアと一緒に作った色んなワンピースに、毎日着替えたり。
魔神達が飲む「葡萄酒」を、葡萄ジュースで薄めた物を飲ませてもらって、酔っ払うと言うのは中々に気持ちの良い物だと実感した。
こんな風に有頂天になる事を覚えてしまうから、人間はアルコールと言うものが美味しいと思うのだろう。
かつては、アルコールの他に、安全に飲めるものが無かった世界が存在したと言うが、みんなアルコールが美味しかったからこそ、他の方法を考えなかったのではないだろうかとも考えた。
ちょっとだけくらくらしながら、次の日にソファで起きると、ワンピースの袖はまくり上がり、膝丈まである長靴下は足首でぶかぶかしていて、髪の毛は自分で掻き回したらしくぐちゃぐちゃだった。
紅茶を輸入するようになるまで、水は煮沸すれば安全になるって分からなかった?! そんなのナンセンス! と、酔っ払った勢いで叫んだ記憶がある。
ああ、私は酔っ払った時に言う台詞もまだまだ子供だわ、とサブターナは思った。教えられた知識以外に、文句を言う相手もいないなんて。
ソファを降りて、自分の恰好を整えようと、広間の片隅にある大鏡の前に行った。この鏡は、部屋を広く見せ、明かりを分散する他に、ちょっと身だしなみを整えたい時に便利だ。
あれ? 髪の毛こんなに短かったっけ? と思ってよく見ると、其処に映っているのはサブターナの姿ではない。
「エムツー?」と、サブターナは鏡を覗き込み、語尾を上げた。パーティーの間に一回も姿を見せなかったのに、鏡の中に出て来るなんて。
「しっ」と言って、鏡の中のエムツーは口の前に指を持ってくる。「良い、サブターナ。静かに聞いて」
なんだか、エムツーが何時もの調子と違う。
サブターナが、耳を寄せる仕草をすると、エムツーは囁くようなふりをして、鏡の中から手を出してきた。サブターナの肩と腕を掴み、鏡の中に引き込む。
不意を突かれたのと、昨日飲んだアルコールがまだ頭をフラフラさせていた影響で、サブターナは呆気なく鏡の中に引きずり込まれた。
鏡のような水面から、サブターナはずぶ濡れの状態で引き上げられた。さっきまで温かい部屋の中に居たので、夏の始めの湖水は大分冷たい。
「何何何? 何なの?」と、サブターナは目を瞬かせ、驚いているのと一緒に、ちょっと怒っている。
「出来た」と言って、エムツーは嬉しそうだ。「サブターナ、逃げよう」と言い出す。
「何から?」と、サブターナは聞き返す。
「今、此処で説明できる状況じゃないんだ。そうだな……まず、服を乾かして、食べるものは数があるから……」
「何言ってんだか分からないんだけど」と、サブターナは怒りのほうが勝ってきたようだ。「聞いてって言ってから、湖に引っ張り込むことに、何の理由があるの?」
「パーティーも、十分楽しんだでしょ? もう、僕のほうも待機し続けるのは疲れちゃったの」と、エムツーは少しだけいつも通りに戻って文句を言う。
「此処何処?」と、サブターナ。
「森の中」と、エムツー。
「見ればわかる。何処の森?」
「城の南の」
「そう」
それだけやり取りをすると、サブターナはすくっと立ち上がり、昇りかけている太陽の位置を確認して、北の方に歩き出そうとする。
「待って」と言って、エムツーはその肩を掴んだ。「何処に行くの?」
「帰るに決まってるでしょ。私が急に居なくなったら、みんな心配する」
「僕が居なくなっても、みんな心配しなかったよ」
「それは……。そもそも、なんでエムツーはこんな所に居るの?」
その言葉から、ようやく二人の話は会話モードになった。
サブターナが出かけてから、エムツーの身の上に起こったことを知らされ、サブターナは考え込んだ。そして、考え考え言う。
「『王の目』って言うのものが、エムツーを『アダム』って呼んで、それが怖くて逃げだして、メルヘスとその奥さんを助けることになって、メルヘスから『封書』の事情を聴いた。其処は合点行った」
「理解してくれた?」と、エムツーは顔を輝かす。
「理解はしてない」と、サブターナは返す。「私達の『家』は存在しなくて、私達は『検査場』で管に繋がれて暮していた。エムツーはその暮らしに拒否反応がある。だから『家』に帰る事に拒絶感がある」
「そこはちょっと……違うとは言わないけど、だって、『異常』だろ? 王の目に従えるようになるまで管だらけで暮すなんて」
「城に行くときや散歩のときは、私達は普通の恰好をしていた。それは、先生達が私達が『恐怖』や『拒絶感』を持たないように、手配してくれてたからよ。私達を大切に思ってくれてるって事でしょ」
「思ってても、やってることが……異常としか言いようがない」
「じゃぁ、貴方の言う『正常』ってどんなものよ? 手のかかる子供を、大人しく成長させるために必要な事が『異常』なんだったら、泣き叫ぶ赤ん坊を、母親が一晩中揺らし続けるのも異常でしょう?」
育児関係の事で理詰めにされると、エムツーは何も言えなくなってしまう。なんとなく、「子供が母乳を欲しがる以上、子供の面倒は女の人が看るもの」だと思って、勉強をサボっていたからだ。
メルヘスに聞かされた時は、嘘だと思ったけど、僕は案外「男は外で働いて、女は家で働くもの」だと思ってたんだ、と認識して、気持ちがしょんぼりしてきた。
そうなってくると、サブターナをいきなり宴の席から、森のど真ん中に引っ張ってきた自分の行動も、非常識なのだろうか、サブターナは夢の中の「家」にいて、管だらけで過ごすことも平気なのかと、どんどん気が滅入ってくる。
「サブターナは……僕の方が間違ってると思うの?」
おずおずとそう聞くと、「間違ってるかどうかより、『恐いから逃げたい』って言う衝動に私を巻き込まないでほしい」と、サブターナは言い返す。
「『王の目』って言うのが、具体的にどんなのかは知らないけど、私は先生達の読んでる封書に興味は無いし、封書の事を教えてもらえる時期が来たら、その時に『ちゃんとした自由』を手に入れられるほうが良い。
だから、私は帰る。今後も『家』に居る事になるか、それとも『城』で暮らすことになるかは分からないけど」
サブターナはそう言うと、エムツーがしがみついてくる前に風の龍を召喚し、ふわりと空中に舞い上がった。
サブターナの肩を掴み損ね、エムツーは勢い余って地面に突っ伏す。
「エムツーが何処にいるとかは、言わないから安心して」と、サブターナは空から言う。「それと、もう、無理矢理私を呼びつけないで。臆病風に吹かれてないで、しばらく頭を冷やしなさい」
このように、エムツーが強引に連れてきたお姫様は、自分の意思で魔王城に帰ってしまった。




