16.不貞腐れても居られない
一応、「頑張れ」は言えたわけであるが、エムツーは納得していなかった。ブルベのサポートもあって、男らしい所をサブターナに見せることは出来ただろう。
だけど、彼の中の「八歳の雄の脳」は、納得していない。何時までも悔し泣きをするほど子供でもないが、さっぱりと「割り切れる」ほど大人でもないのだ。
城で硝子細工を作る時も、金属板を叩く時も、洋灯に込める魔戯力の操り方を練習していても、どうにも腑に落ちない。
この時のエムツーの「腑に落ちない」は、頭がスカッとしないの意味である。なんであれ、ドーパミンが出てくれて、気分が持ち上がってスカッとすれば気分は晴れるのだ。
その肝心の脳内伝達物質が出てくれるチャンスが無いので、「八歳の雄の脳」は、現状に満足できないのだ。
「爽快感をもらたらすドーパミン」の放出を妨げているの原因は、サブターナが居なくなったため、会話の回数が減った事と、大声を出す回数が減った事がある。
その他に、エムツーが何か間違いを言いそうになったら、教師から、叱責が飛んでくる。
今までは、悪い事を言う前にサブターナが止めてくれていたのだが、それまで漠然とあった「誰かが止めてくれること前提」の、言葉への気楽さが無くなった。
その上、魔神達がエムツーを見て「フォ」の音で笑ってたりすると、「子供扱いされてる」とか、「嘲笑われている」ような気がして、とても気分が悪い。
そう言った生活上の色んなマイナス要因を、八歳の雄の脳は「いつも雄を気遣うべきである雌が居なくなったのが悪い」と判断していた。
非常に利己的であるが、彼の脳はドーパミンの減った現状をそう捉えているのだ。
脳のほうの利己心なんて分からないエムツーであるが、気分が憂鬱になったのと、サブターナが居なくなったのが同時期であるのは分かるので、度々その二つを結び付けて、更に気落ちするのであった。
家に帰ってから、部屋着に着替え、エムツーは午後の授業の前の休み時間を、ダラダラ過ごす。猫のエルマとじゃれ合っていた蜥蜴のリーガが、飼い主を気にして、頬っぺたをぺちぺちと叩いてくる。
「リーガ。君の手、汚いんだからやめてよ」
エムツーは、それまでだったら全く気にしなかった文句を言う。
「結局は、僕よりサブターナのほうが信用されてるって事かな……」
その呟きを聞いて、ペット達は何か考え込んだようだった。
この時の、エルマとリーガの「仕草だけでの情報交換」を、言語風に訳すとこうなる。
「なんか、あんたの飼い主、機嫌悪いね」と、エルマ。
「うん。最近ずっとこんな感じ」と、リーガ。「やっぱり、相棒が居ないって言うのは、どんなイキモノでも辛いものなんだね」
「あんたは、私を相棒だと思ってるの?」と、エルマ。
「知能差はあるだろうけど。一応」と、リーガ。
「人間を動かすなら、知能より感情表現が必要よ」と、エルマ。
「へー。じゃぁ、猫の感情表現で、僕の飼い主を正常に動くようにできる?」と、リーガ。
「それは無理だと思う」と、エルマ。「根本の原因が解決できないと、ウザがられるだけよ。ペットって言うものはね」
「出来る限り努力してるんだけどね。一応」と、リーガ。「体を大きくしたり、言葉を覚えてみたり」
「喋れるわけじゃないんだから、もっと別の所を努力したら?」と、エルマ。
「別の所って?」
「飼い主の機嫌を取るとか」
「頬っぺたに触る事は機嫌をとる事にならないの?」
「猫だったら機嫌を取ったことになるけど」
「じゃぁ、エルマがやってみて」
「やだ。こいつ、私の飼い主じゃないもん」
「薄情だなぁ」
「私だって、自分の名前以外の変な呼び方してくる奴は嫌だよ」
「エムツーの考えた『種族の名前』なんだって。一応」
「あんた、その言葉好きね」
「何が?」
「いちおう」
「ああ。ごめん。それ、唯の癖」
飼い主が飼い主であれば、ペットもペットである。
昼下がりの間、ペット達は「なんとかエムツーが機嫌がよくなることは無いか」と、家の中を探し回った。どちらかと言うと、リーガの方が熱心に探していた。
それは、自分の世話を看てくれる主人がぐんにゃりしているのだから、正常に動いてもらわないと、自分達の生活に不備が出来るのではないかと心配だろう。
家の中を漁っていると、面白いものが出てきた。少なくとも、リーガはそれを面白いものだと思った。
教師がテキストの間に挟んで居た、古びた手紙だ。それは非常に薄ぺったいが、中央から端にかけて、心臓の鼓動のリズムで宇宙の渦のように赤黒く光るのだ。
リーガは、それを「キレイ」だと思った。そして、エムツーに見せてあげようと、テキストから手紙を引っ張り出し、それを咥えたままエムツーのほうに這い寄って行った。
「ん?」と言って、エムツーはリーガの方を見た。
リーガは、「見てみて。キレイだろ?」くらいの様子で、封書を差し出してくる。
エムツーは、リーガの意図は分からないが、封書を受け取って、誰の宛名も書いてないことを確信してから、半分に折り畳まれていた便箋を開いた。
ぎろり、と、それはエムツーを睨んだ。手紙の中にあったのは、文章ではなく、紙として区切られた黒い空間に浮き出た大きな目玉だった。
金色の虹彩に縁どられた、縦に長い赤い瞳孔を持っている。それは、沼の底から響いているような声で、「ああああああああああ」と呻いた。
「あぁああああああ。だぁああああああああ。むぅうううううううううう」と。
エムツーは、反射的に悲鳴をあげそうになったが、何時もの勉強での訓練を思い出した。恐怖を感じた時、身体を硬直させて悲鳴を上げるのは、人間と言う動物の悪い癖だと。
エムツーは、「それ」が、紙と言う空間の境界を越えてくる前に、両手で潰すように便箋を閉じ、封筒にしまって、封筒の口に「封」をした。
反射的な動物としての癖は我慢できたが、心臓が跳ね上がって、息が苦しくなった。身体が緊張し、何か「悪い物」の気配がする封筒を、リーガに突っ返した。
主人の表情とぶっきらぼうな動作から、機嫌を取り損ねたと思ったリーガは、手紙を教師の椅子の上に置いてあったテキストの上に、ポイッと投げた。
今のは何だったんだろう、と、エムツーは考えた。
「アダム」と呼ばれたような気がする。だけど、まだエムツーは「アダム」としての器も手に入れていないし、「アダム」として生活するようになるまで、後五年は学習をしなければならない。
だけど、今観た何かは、僕を「アダム」だと知っていたのだろうか?
推理とも呼べない、朧な直感を抱え、エムツーは大きなため息を、何度も繰り返した。




