10.そして光を失った
夕空が広がる頃。町で唯一の風見鶏を掲げていた教会の裏で、娘は旅支度をして待っていた。本当に待ってると思わなかったメル公は、珍しく素面だった。
「人生を棒に振りたいのか?」と、自分から投げかけた恋だと言うに、娘の真意を問いただす。
「私にだって、忘れたい事はある」と、顔が分からないように頭にストールを被っている娘は言う。それから、「貴方のお話は、私に私の苦を忘れさせてくれるの。それを聞いていたい。ずっと」と、言い切った。
メル公は、瞼をぎゅっと閉じ、しっかりと黒い眼を開いてから、「幸せに出来る保証はないぞ」と囁き声で宣言した。
「それで良い」と言って、娘はメル公の手を握った。
二人は、宵闇に紛れて町を逃げ出した。
山の中の森林地帯に、湖と菩提樹を見つけた。彼等は湖の浅瀬で沐浴をし、菩提樹の前で「創造神」に向け、夫婦となる誓いを立てた。
メル公は、夫として非常に熱心に働いた。しかし、その働いている姿を、一度も妻に見せなかった。
妻が木の根元に寄り掛かって眠っている間に、メル公は山の中に一切の物音を立てずに小屋を造った。家具も設えられていて、次の晩からは真新しい寝台で眠れた。
食べ物を手に入れて来ると言って出かけたメル公は、妻が期待していなかった「缶詰」や「ミルクボトル」や「チョコレート」や「チーズ」や「焼きたてのパン」を紙袋一杯に持ってきた。
妻が「料理をしたい」と申し出ると、メル公は削って竈にするための大きな岩を持って来て、「二日間だけ待ってくれ」と言った。
岩を削っている音も、鉄を精錬している――そもそも、そんな作業場はないのだが――様子も見せずに、次の日には煙突代わりの窓と、鍋やフライパンをかける口の付いた竈と、鉄鍋とフライパンが小屋の片隅に用意されていた。
その次の日には、水瓶と木製の調理台と木のまな板と、斧のような包丁も用意されていた。竈にくべるための、よく乾いた薪まで。
そして、メル公本人は、紙袋の中に、塩の袋とコショウの瓶と蜂蜜のボトルとビネガーを入れた容器を抱えて、玄関から入ってきた。
誓いを立ててからほんの一週間ほどで、生活に必要な物の大部分は揃った。
「思った通りだ」と、妻は夫に言う。「やっぱり、貴方は魔法使いなんだ。幸せの魔法を使える魔法使いだ」
「おいおい。俺はおとぎ話しかしないって言っただろう?」と、夫は返す。「この家の様子も、おとぎ話をした結果だ」
「そうね。私も、久しぶりに貴方のお話が聞きたい」
妻がそう言うと、夫は妻の手を握り、自分の顔より低い位置にある妻の額に口づけ、耳に「誓いのキスをしてなかったな」と囁いた。
充足した生活をしながら、やはりメル公は時々妻にもおとぎ話をした。
「城の中の支配者の話をしようか?」
その言葉から始まった話も、妻にとっては楽しいファンタジーだった。メル公も、いつの間にか、それをファンタジーだと思うようになっていた。
そんな気の緩みから、彼は妻に、神々の中には、外の世界から来た「永劫の者」と呼ばれる存在が居る事と、その者達は人間の世界を観察して、時にそれを作りかえる遊戯を行なうと言う事を、話してしまった。
そして、神を食らう神である、ノスラウ王の話も。
「ノスラウが、狂った神でありながら、何故城に保護されているのかは知らされてないんだ。『永劫の者』達にとっては、ノスラウの存在はとても重要らしいけどね」
そんな風に、世間話でもするように語り聞かせた。
話しただけなら、まだバニアリーモにも、見つけられなかっただろう。
しかし、妻は夫の話してくれる「ドキドキするファンタジー」を、蝋燭明かりの中で、ノートブックにメモし、大切に保管していた。妻が、ペンとインクで「永劫の者。ユニソーム。カウサール。バニアリーモ」と綴った時、観察者は地上での異変に気づいた。
妻は、蝋燭明かりの外から侵食して来た、闇以外の闇によって、冷たい底に引き込まれた。悲鳴を上げる間も、夫に助けを求める間もなく、彼女の体は凍りついた。
朝、目を覚ましたメル公は、妻の姿を探した。いつも、温もりを求めるように、自分に抱き着いて眠ってるはずの妻がいない。そして、彼女が書いていた「ファンタジーの記録」を目にした。
見つかったのだ、と、メル公は察した。
メル公は素早く衣服を着こみ、妻を探して山の中を走り回った。城の中でも俊足と呼ばれていた時の、機敏な足さばきで。
メル公は、山の木々の間で妻を見つけた。肌着を着ただけの、うずくまった姿で、石に変えられ、地面に横たわる妻を。
メル公の意識の中を、闇より深い闇が覆い始めた。
何を責めるべきかを考えた。
記録をとっていた愚かな妻を責めるべきか、神としての秘密を話した自分を責めるべきか、それとも、あの、特定の形を持たぬ「永劫の者」を?
そう思った途端、頭の中に声が響いた。
――我等をどう責めるのかね? メルヘス・アローン。その思い付きを止めなかったからこそ、今、お前の妻は躯となっているのに。
ユニソーム、と、怨みを込めた声で、その名を唱えようとした。その途端、喉が引き絞られた。自らの両手によって。
喉仏が折れそうになったが、永劫の者達は、そんなに簡単な死は選ばせてくれなかった。
乗っ取られた両手は勝手に動き出し、自分の意思と操作の間でビクビク跳ねながら、指を眼に押し付け、搔きむしるように両方の眼球を抉り出した。
それから、両手は気が触れたように髪の毛を引き千切り、痛みに噛みしめていた歯の間に、手首を滑りこませた。
両手首の血管を食いちぎると、永劫の者からの操作は止まった。その代わりに、手首の傷から生温かい大量の血液が流れて居るのが皮膚の感覚で分かった。
眼球を失った目は光の方向を知る事も出来ずに、のろのろと歩を進め、森の中を彷徨った。




