8.嘘の見返りは
家の中でお風呂に入って、エムツーはパジャマに着替えて眠りにつこうとした。その時に、今日の日記を書いていないことを思い出した。
日記は、自分との対話のために書くもので、先生に見られるものではない。そこで、エムツーは今日の昼間に湧いた、自分の心配事を書き綴った。
しかし、彼も男の子なので、自分が「誰かに守られなくなること」が怖いとか、大人になった僕を守ってくれる存在は何かとか、そんな子供っぽい話は書きたくない。
それが、大人になる上で考えておかなければならない、重要な哲学であったとしても、怯えた七歳の男の子の脳は、いかに自分が自信に満ちて、力に溢れた「雄」であるかを主張するほうが優勢だと判断した。
人間の雄は雌より強いはずなのだ。それは、子供の時に死亡する確率が高かったり、男の子にだけかかる病気があったりするけど、鍛えれば女の子より力が強くなるし、何より、何かを攻撃して、その成果を得られたときに、脳に駆け巡る伝達物質の強さは、雌の幼個体にはわからない感覚だぞと、七歳の少年の脳は考えた。
僕は誰かに守ってもらわなきゃならない弱虫じゃない。
そんな打算が頭の中で働いていると言う事を、まだ認識できないエムツーは、自分に怯える心を起させた経緯と、自分の怯え以外の事だけを書いた。
「もうすぐ戦争が始まる。サブターナや先生には、言っちゃだめ。特にサブターナには、絶対言っちゃダメ。女の子は、生活が安定していないと、恐慌状態を起こす。
僕は男の子だ。だから戦争の事を知っても怖くない。だけど、サブターナは女の子だ。もし、刺繡をする暇なんてないくらいの戦場に投げ出されるなんて知ったら、気を失って目を覚まさなくなっちゃうかもしれない。
ヒステリーって言うのは、色々だ。色々な症状が出る。笑い続ける症状が出たり、発作的に飛び回ったり、くるくる跳ねまわったり、突然大声を出して気を失ったりする。
中世って言う世界での、尼さんの一部には、そんな恐慌状態に陥った人達がいた。だけど、その人達は、そのおかしな症状のおかげで、逆に聖人扱いされたりしたんだ。変な話。
僕は、サブターナがおかしくなっちゃうのは嫌だ。だけど、もし、戦争の事を知って、サブターナが『くるくるぱー』になっちゃっても、僕はサブターナを見捨てない。僕らは何時でも二人だ。二人でいるから、人類の祖になれるんだ」
サブターナの事を気に掛けている、ちょっと良い事が書けたぞ、と思って、エムツーは得意になった。
エムツーの脳も、自分を強く見せながら、雌を守る意思があると言う大義名分を書けた事で、安息感と爽快感を起こすドーパミンを放出し始める。
書いたものを何度も読み返して満足を重ね、やがて飽きて日記帳を閉じると、エムツーは、いつの間にか眠っていた。机から離れたことも、ベッドに潜ったことも覚えていないくらい、速やかに。
翌日、勉強の時間が終わって、趣味の時間になった。着替えを済ませたサブターナは「城」に向かうことにした。身体検査のために、「検査場」に行こうとしたのだ。しかし、一緒に着替えたはずのエムツーはアナンに呼び止められている。
城に行くときの身体検査は、いつも二人で一緒に受けるのが決まりだった。趣味の時間の時だけは、やってる作業が違うので、外出と帰宅の時間に多少の差異はつく。
エムツーは確か、次は金属板を叩いてランプの笠を作る作業をやると息をまいていた。作業には時間がかかるだろう。それなのに、エムツーはリビングに残された。
「サブターナ。貴女は、いつも通り用意をして」と、アナンは扉の隙間から呼び掛けてくる。「エムツーは、今日は居残りです」と、エムツーにも聞こえるように言って、アナンは廊下に出てくると、リビングと廊下の間の扉に封をした。
サブターナは暗い廊下の中で、先を歩く教師と、背のほうの扉を何度も見直した。エムツーが居残りと言う事はどう言う事だろう。
エムツーが居残りなら、自分だって居残らなければならないのでは?
そう思ったサブターナは、「私は居残らなくて良いの?」とアナンに聞いた。教師は、「エムツーとは、少し話をしなきゃならないの。その間だけの居残りよ。決まりが変わったわけでもないし、貴女が心配する事じゃないから、安心しなさい」と答え、サブターナの肩を叩いた。
サブターナの見送りをしてから、顔を緊張させた教師はエムツーの元に戻った。
「リーガから教えてもらいました」と言って、アナンは、エムツーが何かを怖がっていることを知っていると言い出した。
最初は、エムツーも「怖がってなんかないよ」とか、「リーガの気のせいだよ」とか言ってはぐらかそうとしたが、アナンはエムツーの日記を片手に持って、あるページを開いて見せた。
昨晩、もうすぐ戦争が起こると書いた節の所だ。
「貴方は、昨日、日記を床に落としたまま眠ってしまっていたの。それで、リーガがこの文章を見つけて教えてくれました。日記を見てしまったことは謝ります。ですが、この内容は褒められたものではありません。こんな話を、誰から聞いたの? それとも、自分で考えたファンタジーなの?」
どうやら、アナンが問い詰めたいのは「もうすぐ戦争が始まる」と言う所と、「女の子は恐慌状態を起すものだ」と言う、明らかに他の誰かから言い含められたような気配のする部分についてのようだ。
エムツーは、本当のことを言おうかどうしようか迷った。そして、唯の空想だと言おうとしたが、言葉を発するより先に、引きつった表情は「これから嘘を吐きます」と言っていた。
それを目にとめ、アナンは鹿のものによく似ている瞳の並ぶ眉間に、しわを寄せながら、生徒に説く。
「もし、これを貴方が自分で考えたファンタジーだと言うなら、貴方にはもう一度、根底からの授業のやり直しをしなければならないわね。性別を理由に、サブターナの価値を貶めるなどと言う、古い人類の考えに染まってしまっているなら」
「授業のやり直しって……?」と、エムツーは不意を打たれたように聞き返す。
「三歳の時から受けていた授業のやり直しよ。もっと深く、公平に世界の事情を読み取れるようになるまで、知識を学びなおす必要があるわ。ペットと遊んでいる時間も、趣味の時間も、散歩の時間も返上して」
そう教師に言われて、口八丁で誤魔化そうとしていたエムツーは、諦めて俯いた。
「もう一度聞くわ」と、アナンは言う。「こんなことを、誰から聞いたの?」
もう、問いかけの形で断定されている。エムツーは言い逃れはできない。唾液を飲み込み、恐る恐る口を開き、唇を少しふわふわと動かしてから、「メルヘスに聞きました」と答えた。




